歴史

宇和島高等女学校のストライキ(大正10年)と制服の変遷



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桜町にあったころの宇和島高等女学校


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白黒写真で分からないが、紺色だったらしい

以下「宇和島の明治大正史」より引用
文中にも見るようにその頃の女学生はすべて和服に海老茶袴であった。それに下駄をはいている。体操の時間だけ草履に履き替えた。学用品は風呂敷に包んで両手に抱くように載せて通学した。
制服の出来たのは大正時代でそれは紺地に折襟の洋服、一見すると今日の自動車の女車掌の着ているようなものに似ていた。(画像参照)同時に黒靴が登場した。しかし制服はそれから後、一二度変化した。


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制服は規格がアバウトだったのか前の重ねが左右逆のもの見向けられる。いわゆる「おとこまえ」

宇和島高等女学校最後の入学者のひとり上野禮子氏の話では「制服は自分で縫いよったぜ」と言う事から今のように洋品店で指定の制服を買うのではなくオーダーメードだった。


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市立病院の裏庭に、「愛媛県立宇和島高等女学校創立の地」の碑がある




大正10年、愛媛県立宇和島高等女学校に於いておそらく全国で初であろう「女学生のストライキ」が決行された。
本科22回77名、3年生が中心となりのちに4年生の一部を加えて、署名血判の上、裁縫室を͡拠点とし、時には西江寺に集まって気焔をあげ、誠に勇ましい限りであった。
まさに大正デモクラシーを象徴する民主化運動の走りと言ってよい。


抑々の発端は、校長、中矢清七郎の不当な人事の撤回と真相究明などを要求したことに端を発する。


大正9年6月、県視学だった中矢が校長となり、翌10年4月までに田原実教諭をはじめ、15人の教員が転校または退職。続いて5月、三好豊太郎教頭の転校説が流れた事から23日3年生77人が登校拒否による留任運動を開始した。

25日4年生(本科21回87名)62名も同調し、教員異動の真相究明、舎監更迭の理由、校長不信任などを含む12カ条の質問状と血判の退学届を校長に提出

この間、高畠亀太郎県議、中平常太郎町議らが調停に奔走した。
県視学が来た28日、首謀者ともくされた2人は諭旨退学、他のスト参加全生徒は停学処分、しかし、停学処分の生徒全員が諭旨退学血判状を提出したため6月1日、県学務課長も来て翌2日の父兄大会に出席、大会決定により3日、父兄は生徒同伴で校長に陳謝、同日、停学処分は解除され、生徒は4日から登校した。

「愛媛県百科大辞典」

これが事件のあらましである。
実に12日間の闘争。この時期男子の学校においても同種の闘争は見られず、まさに壮挙と言ってよい。



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「作樂」宇和島高等女学校の同窓会「作樂會」の機関誌の創刊号(村田蔵六氏提供)
現在、原本は宇和島南中等学校に保管されている

この貴重な資料の出現により、ストライキを決行した学年が本科22回(大正12年卒業)であり、77名全員の氏名を知ることができた。
さらに上記の教職員の名簿も記載されていた。


事件の詳細

中矢校長は検定出の人であり、大卒や師範卒の教員を遠ざけ、自分と同じ境遇の検定出の教員を集めるなど露骨な人事が目立った。これに生徒が反発したと言うのが事件の発端のようであった。

生徒らは夜間、各組に分かれ、市内の有力者の家を訪問して自らの考えを話して理解を求めた。この行動力がストライキを実質成功に導いたと言える。





事件の終息




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1週間ほど後、有力者が中に入り事件は終息した

公会堂で父兄が同伴で学校側に謝罪する会が開かれた。父兄代表、赤松泰包、山村豊次郎、太宰孫九


そしてその後、中矢校長は転任となり、師範学校出の教師も帰ってきた。結果的に生徒の要望はほぼかなえられる結果となった。

以下、昭和30年の地方紙に掲載された、当時の77名の生徒の一人のお話

あれは大正10年、第一学期の終わりごろでした。

宇高女(宇和島高等女学校、現・宇和島南中学校)がまだ桜町にあった頃です。(現在の市立病院・記念碑あり)当時の校長さんは中矢と言う人でした。ところがその中矢さんが検定出の人だったためか、大学、高等師範の出身の人々を転勤させて、検定出の人を入れてゆくので私たちはこのやり方を非常に不満に思っていました。

たまたま科学の三好という先生が転任になることを知り、今までの事もあるので私たち生徒は三好先生の留任運動をはじめたのです。これが導火線となって遂にストライキにまで発展していったのです。

私たちは「この学校を大改革しなければならぬ、そのために私たちが犠牲になっても仕方がない」という悲壮なまでの決心をしてこの運動をはじめました。

中心は私たち3年生でリーダーは中平さんさん(中平市長の娘さん)でした。そしてまず私たちの気持ちを書いた嘆願書をつくりましたが、それには共鳴者の血判を押すという騒ぎですよ。もっとも指を切ると痛いので指を糸で縛って針でついて血を出しましたが、それでも皆「痛い痛い」と顔をしかめながら血判状を作りましたよ。

また夜は、皆が自宅や寄宿舎を抜け出して4,5人グループをつくり、市内の名士と言われる人々を廻って我々の真意を話して理解を求めたものでした。

提灯をつけてあちこち歩きまわった事などが昨日のようにまざまざ思い出されます。高畠亀太郎さん、樋口虎若さんらの家を廻りましたが、父兄の有力者だった中原渉将軍の家に行った連中は「三尺下がって師の影を踏まず」と言う例えを知っているだろう生徒の分際で先生に楯突くとは以ての外だ」と大説教を受けほうほうの態で逃げ帰った組もありました。

私たちはストライキ中、裁縫室に立てこもっていろいろ密儀をこらしていましたが、一方先生方は、連日職員会議で大変な騒ぎでした。
私たちの主任だった某先生等あがってしまい、うろうろしており、生徒が肩を叩いて「大したことはやらないからあわてることはないですよ」と励まされる一コマもありました。

一週間ばかりストライキを続けた頃、父兄の有力者たちが中に入り、ようやく解決しました。
そして私たちの行動については、動機は美しいが、その方法は学生らしくないという事で、一週間乃至三週間の謹慎になりました。私も2週間の謹慎になりましたが、自分が悪い事をしたという気にはなれませんでした。私だけでなく皆同じようだったらしく、処罰されたというジメジメした気持ちは持ってなかったようです。

解決後のある日、市役所横の公会堂(戦災で焼失)で父兄と生徒が集まって学校側に謝罪する会が開かれました。赤松泰包さん、山村豊次郎さん、太宰孫九さんらが父兄代表になって学校側に謝りました。

女学校のストライキと言えば珍しく、この事件は社会から大きく注目されましたこの事件は文部省をも動かしたようです。

騒ぎが収まってほどなく、中矢校長は、県の視学に転任となりそして翌年の春には高等師範出の先生や上野音楽学校出の先生が次々とお出でになり、結果的には私たちの要望はほとんどかなえられました。

あの頃のクラスメートはもうおばあちゃんになってしまいましたが、それでも時折開く同窓会では皆若いあの頃にかえってはしゃいでいますよ。

布水尾さん、布川すみれさん、太宰文江さんら皆あの頃の闘士でしたからね(笑)

山口国子さんのお話より




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昭和8年頃製造のラジオ

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古いラジオ発見

調べてもらった話では

ナショナルラジオ受信機 R-52 とみえますが、R-53が昭和10年頃発売なので、その前の型とすれば、昭和8年、9年ころ?かと思います。

という事

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ナショナルの文字


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側面

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裏面の蓋




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つまみは

上がチューニング

下がスイッチとボリューム(どっちだったか忘れた)


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真空管は東芝


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スピーカー





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ご注意

この真空管を抜き差しする場合には必ず先にスピーカーのプラグを抜いてから願ひます


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ナショナル受信機

松下電機製作所 NO6634

製造番号も残っている


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真空管その他を掃除してみる



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OKADA CASE

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オカダケースのラベルが中々ピンと会わないので3枚

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裏側の端子


なんと、整備したら音が出た

南海放送とNHK総合、教育など













井上幸三氏鈴木幸尋氏協議の結果、宇和の愛媛県歴史文化博物館に寄贈するのがよかろうと結論


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後日大本先生に引き取っていただきました

2018年10月初旬

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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制



新訂小学唱歌 尋常第四学年

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愛媛県音楽教育研究会編
小学唱歌作曲家協会認定

新訂小学唱歌
尋常第四学年

村田蔵六氏贈呈

昭和5年

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宇和島第二尋常小学校

鶴島小学校の前身である

6月26日、鶴島小学校に持参、石本先生に頼んで、鶴島小学校に進呈、末永く保存していただくことに

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喜多宇和五郡共同共進大会の会場になった第二小学校(大正11年ごろ)


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1ページがやぶられてるので詳細不明は残念

2 勅語奉答


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あな尊(たふと)しな 大勅語(おおみこご)

勅語の趣旨を 心に刻(ゑ)りて

露もそむかじ 朝夕(あさゆふ)に

あな尊しな 大勅語


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天長節 



一月一日
これは今でも正月のテーマソングとして健在









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明治節(昭和2年~22年) 天長節を経て、現在の文化の日か



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紀元節 現在の建国記念の日

金剛石


金剛石は、死んだ爺さんに聞いたことがあった。

汚れた自転車を少し磨いたら奇麗になったのにびっくりして「金剛石も磨かずば、玉の光は添はざらん」

しかし、老人になっても覚えているって昔の人はどんだけ歌ったのだろう

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春の小川

春の小川はさらさら流る

文語になってる!



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春の歌



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いなかの四季




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橘中佐(陸軍)

日清戦争で戦死し、軍神となる



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川中島

上杉謙信はあろうことか、単身敵陣深く切り込み、信玄と切り合うという、合戦史上例のない大太刀周りを演じた。

その真意と効果は?

部下への叱咤か?

自身への͡鼓舞か?





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涼風小風 北原白秋


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漁船 灯台


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加藤清正

賤ヶ岳の戦いは、信長の死後、最大の宿敵、柴田勝家軍との戦いで奮戦し、後の世に「賤ヶ岳の七本槍」として名を遺す。

豊臣秀吉が天下を取ったのち、朝鮮出兵で奮戦したがここで体調を崩し寿命を縮めた


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近江八景


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赤穂義士






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八幡太郎

と言えば、義家




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曽我兄弟と言えば仇討



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廣瀬中佐

旅順湾の閉塞作戦を指揮、戦死す。

軍神へ


弁慶

衣川の戦い




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曽我兄弟がもうひとつ



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かなりや

これは私も知ってる


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昭和5年


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sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制


作楽第3号(作樂会・宇和島高等女学校)昭和17年 

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作樂 第参号

愛媛県立宇和島高等女学校作樂會


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目次


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各支部

紙質から、画像が不鮮明


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会長は校長先生のようだ

秦四郎





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作楽会 会則






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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制









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作楽創刊号(作樂会・宇和島高等女学校)昭和13年 

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宇和島高等女学校の同窓会の機関誌「作樂会」創刊号発見!



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これはどこ?

作樂會館か

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昭和13年12月



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校舎の前かな?
この当時は無論現在地(昭和8年ごろ移転)


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各支部の写真


下記はアップ

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森井先生送別記念

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思えば過ぎし夏の末


この記事は「通信社なんよ」から転写した記事です。


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宇和島で最初の中等学校は「変則中学南予分校」明治9年10月発足
場所は丸の内、豊後橋を渡った堀端、現在の御殿町にあたる。


「変則中学南予分校」があった場所(丸穂村字鶴島・当時)


その後宇和島の中等教育は、明治初期の「朝令暮改」を経て同32年「宇和島中学」が発足してようやく著に就いた。

初代校長は、宇和島出身の教育者尾田信直であった。

宇中の尾田信直先生は、宇和島にとっては法律博士、陳重、八束、両穂積先生に次いで第三人目の学士で、東大では国文学の研究を積まれた。
年齢は未だ30歳そこそこでこそあれ、意気軒昂、英姿颯爽として、前任の伊勢皇学館から帰宇し、独立最初の宇中校長として故郷に錦を飾られたのである。


その尾田校長が手がけた事の一つに宇和島中学「短艇部」創立が挙げられる。




明治34年秋、高浜沖で開催された県下の中等学校(三校)の対抗戦で宇和島中学は松山中学に大差にて敗れるのであるが、その敗因は下記の如きと言われている




宇和島西条の両中学は、本来松山中学の分校で僅かに2箇年以前の明治32年の4月1日に松中から離れて独立したような次第で、従ってそれまでは、海上は元より、陸上の対抗競技も全然行われていなかった。
偶々34年の一学期の校長会議の席上で、「三校間の親睦を計るためにボートレースを高浜沖に開催しては如何」と提案しされた。

これが間もなく突然具体化し、9月22日を期して高浜沖に三校の対抗レースを開催することに確定したのである。


(敗因その1)
何様学期末の而も夏休み直前の事で、この取り決めには教員や生徒の間も相当な批評と不満が起こり、選手の派遣についても強い異議が出たが、学校の体面上、今脱退するわけにも行きかね、俄かに選手の選考に当たることになった。
しかし、時はすでに夏休みに入り、適格な生徒の中には帰省した者もあり、止む負えず、宇和島在住の生徒の中から選抜するしかなかった。


(敗因その2)
コーチも適任者がなく、東京から帰省中の隅田川のボートレースもろくに見たこともない某浪人生が半ば自薦で就任するという、ピッチも32,3の緩慢を主張して生徒を困らすという始末であった。


(敗因その3)
そして乗船出発の朝に至ってコースは直線ではなく回航であることがわかった。
松中は熊本五高の先輩にコーチを受けていたが、五高が狭隘な絵図湖で回航の方法を採用していたのでこれに則ったものである。

(敗因その4)
選手一同は、樺埼埠頭から乗船したが、風浪が次第に加わり、三崎半島もいわゆる御鼻周辺は風浪なお荒く、選手の中には船酔いに苦しむ者も出た。


22日のレースには、松中の第一選手には5艇身の大差で、また第二選手にも3艇身の差で敗北した。
西条は松山中学の第三選手にすら5艇身を遅れて惨敗を喫したのである。

歌には夏の末とあるが事実は初秋の9月22であった。


帰りの汽車の中で、松山中学が喜ぶ姿を尻目に宇和島中学の選手らは後日の雪辱を大いに誓った。

その時の悔しい思いをこめて作られた応援歌がかの有名な「思えば過ぎし」である。


さて、宇和島中学の雪辱戦となった第二回の対抗戦は明治35年宇和島湾で行われた。

「コースは、日振新田の馬越を起点として樺崎沖着点とする1キロメートル」


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馬越  この墓地の下の住宅地まで海岸線が迫っていた。


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ゴールは現在の「宇和島市歴史資料館」辺りと思われる。




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樺崎砲台跡(復元)





愈々10月21日、竜虎相打つ決戦の日は遂に到来した。爽涼な秋晴れである。「対校」という興味もわいて会 場付近は宇和島中学の応援団や一般観衆で黒く埋まった。コースは日振新田の馬越を起点として樺崎沖を着点とする直線千メートル、用艇は宇和島中学は例の 「雪輪」松山中学は「布引」である。

然も海は満潮である。やがて合図の音とともに白煙が上がる。その瞬間二つの艇首は波を蹴立てて突進する。両軍の勢力はまさに伯仲、追いつ追われつ、抜きつ抜かれつの大接戦は肝を寒からしむる思いであった。

やがて800メートルを過ぎた頃、松山中学にやや乱れが見えてきた。その虚に乗じて宇和島中学は力漕また力漕、遂に半艇身の差を以て凱歌を奏した。
陸上からは万雷のような拍手が起こった。遂に悲願の雪辱が此処に成ったのである。

津村寿夫「宇和島の明治大正史」より抜粋


詳しくは『宇和島中学に短艇部(ボート部)創立』参照

 舵手 長山吉次郎  整調 高畑欣之助
 五番 井上  新   四番 武田 敬綱
 三番 清家勝太郎  二番 本田 織江
 舳手 藤井 儀史

顕彰碑当時の新聞より
「当時は娯楽の少ない宇和島の事とて、秋のボートレースは、春の同じく宇中の陸上運動
会と共に、全町挙げての年中行事の一つであった。
その上に宇和島初めてのボートレースであり、さらに復仇なるか、返り討ちにあうか、100%の興味をさらって、秋晴の好天気に恵まれた当日は、樺崎お台場から船着き場の埠頭にかけてさらに、住吉山上に至るまで、観客で満たされ、殊に会場は50mを隔ててコースの両側は和船ですき間も無いほどに埋め尽くされた。
コースは日振新田沖、馬越海岸よりを起点とし、樺崎突堤に向かい、お台場沖を着点とする直線1000m、用艇は滑床渓谷の飛瀑からその名を採った布引と雪輪の2艇であった

午前10時から満潮に、両行の選手は拍手と歓声とこ中に乗船し、審判船に引かれて、スタートについた。やがて審判船から一点の白煙が揚がるや、両艇はスタートを切り艇首に白玉を砕いて突進した宇中は「ゆきわ」で沖側、松中は「ぬのひき」に乗って陸側を滑る
我に抜山の力があれば、彼にも鉄槽の備がある。その時宇中の凱歌に「何れをそれと白波の、波を蹴立てて進むなり、その勢いは雲を呼ぶ、龍かうそぶくはた虎か」の一節があるが、技量は正に伯仲し一槽毎に追いつ追われつの大接戦で、観衆は海も山も、唯アレヨアレヨと興奮熱狂するばかりであった。
しかしマルスの神は、宇中軍に味方した。800mに至って松中軍の整〇小田君のオールやや乱れたのに乗じて、宇中軍は力漕2シートを抜き、さらに最後のスパートに、松中軍の38ピッチに対して40の急ピッチをとり、これが功奏して、約半挺身の差をもって復仇をとげ、その頭に勝利の栄冠を頂いたのである。その一瞬歓声は山からも海からも湧き上がって、遠く九島の山頂まで轟渡った。
しかし、松中軍も遠征、なれぬ異郷の海上で善戦し、宇中軍と僅少の差まで追い詰めた事は敗れたとはいえ、偉とするに足るとの称賛も相当に高かった

三谷双龍生・文



九島村合併と、戎山、保手分村運動☆




九島村が宇和島市と合併したのは昭和9年8月だが、その数年前、保手、戎山が宇和島市との分村合併を希望したのがそもそもの始まりだといわれている。
以下「山村豊次郎傅」より


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戎山と九島

宇和島市と九島村の合併問題はその源を昭和3年第3代山村市長時代に発している。
当時問題になった合併は九島村の全村問題としてではなかったが市と陸続きの保手、戎山の2部落が熱烈に合併希望を訴え最初は坂下津も加わって3部落の部落合併であった。
すなわち昭和3年6月4日、保手の清風園に3部落有志が会合し、市から福田助役が列席して市の現状を説明したのに対し、3部落側は熱心に合併を希望し合併委員を挙げてこの問題を具体化すべく運動を開始したのが、そもそも合併運動の皮切りであった。
然るにその後如何なる理由によったのか、3部落の内坂下津は次の合併陳情書に参加していないところを見ると脱退したのであろう。

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来村川と保手地区




陳情書

「吾々二部落は、宇和島市との合併を希望し、これを為すに非ざれば、吾が部落の向上発展は期せども望めざるの現状にあり宇和支庁当局においても、吾らの苦衷を諒察せられ一日も早くこの問題を解決する様御取計いあらんことを望む。右連署捺印の上陳情候成」


昭和2年10月16日

合併委員長 梶原計國

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梶原計国氏の銅像(三島神社)


合併委員 戎山
九島村村議会議員、河野國太郎  戎山区長、鹿島千松  副区長、早川武助
区民、小島小太郎  同、大塚勇蔵  同、藤堂熊吉  

合併委員 保手
区長、浜田清一  副区長、山本善平  区民、浅川三治  同、片山圓太郎 同、梶原計國  同、三好國三郎

宇和支庁長 高橋作一郎殿

理由書
我々二部落の合併は多年の懸案にして既に大正12年には保手戎山において村当局に稟申書を提出せし次第なるもそのまま放任され今日に至るは実に遺憾とする所なり。
これを地勢状より観るも僅かに一町に過ぎざる河川によりて区分され種々行政上の便宜に於いて九島村役場に行くより宇和島市役所に行く事が簡易にして便利なるは明らかである。
最も注意すべきは近き将来に来村川は坂下津へ貫流すべく付け替えらるると聞く(計画だけで終わったようである。地元の古老はその話しを知っている人が多い)
斯くなる時は当然に宇和島市と接続するは明らかにして道路橋梁なども完全を期し時代の要求は副わねばならぬ。然るに現在のままに放任する時は百年一日の如くこの部落の発展を望む事は不可能である。
事に教育に於いては狭小なる学校において教育を施すは子女の幸福に非ずと本年4月以降小学児童の総ては宇和島市の第二小学校(丸之内JT辺りにあった。後の鶴島小学校)委託教授をなしつつある現状にしてこれ既に行政上合併したるも同様なり。

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鶴島小学校(現在)


中略

次に衛生面において考えうるも、この2部落に於いては病人患者の発生したる場合といえども村医を招聘することは殆どなく総て宇和島市の医師に診察を受くる有様にして多額の村費を支出しつつある村立病院も村医も我々2部落民にとりては有名無実と言う現状にあり

上述の如く地勢状より自治行政上より、教育衛生上より何れの観点よりするも我が部落の向上発展を期し部落民の利便幸福を計るの道は有利なる条件のもとに、 宇和島市に合併して市の大計の傘下に入るを待つあるのみなれば宇和支庁においても慎重審議以って大局に注ぎ我々部落の意の存する所を諒察せられ今秋の盛典 たる御大典記念として速やかに解決せらるる様、ご尽力あらんことを懇願して止まざるなり。

「山村豊次郎傅」引用


このときの合併委員(戎山)


河野國太郎(村議会議員)

昨年、河野家は無人のまま数十年を経て取り壊された。当時戎山で最も古い家の一つであったと思われる。
國太郎氏は「河野網」と言う網元であった。
私が生まれた頃に亡くなり、覚えていないが、夫人は記憶にある。小柄で元気な人であった。
庭に井戸があっておいしい水が出てたのを思い出す。

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河野邸跡に残る「えんこさま」の祠


鹿島千松(戎山区長)

千松氏はその後、明倫町に移転した。私の記憶では鹿島家は長く食堂を営んでいた。
その親戚が現在も戎山にある。



早川武助(副区長)

同名の家が現在もあるが、その家人の話だと親戚では無いという。


古島小太郎(小島は誤り)

その子孫は現在、宇和島市に移転して米穀店を営む。
親の話だと、小太郎氏の息子、朔氏は戎山在住時、宇和島市市会議員を務めたこともあり、氏が鶴島小学校PTA会長を務めたときにそれまで自由であった校区が鶴島校区になったと言う。
戎山には現在もその親戚がある。


大塚雄三

その住居は私の親戚が住んでいて現存している。墓所は地元にあるということが最近判明した。・

藤堂熊蔵(熊吉は誤り)

当時の委員で、唯一直系の子孫が現在も住んでいる。



昭和8年10月31日に招集された九島村議会は、戎山、保手、坂下津(一部)の分離合併に難色を示し、さらに道路改修にも3部落に対し不利の議決をされたことから、坂下津選出の村会議員三浦鐵蔵氏が激憤の余り途中退場するに至った。
翌11月1日、3部落代表は村税不納決議文を知事宛に起草し、宇和支庁長に提出するに至った。

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九島村役場があったと思われる場所
字居浦二番耕地千二百九十二番地地


「わが三部落は、従来、村として行う事業の恩恵に浴すること薄く、且つ今回の救農土木においても当然行われるべき吾らの要望は容れられず吾らは斯かる不公平にして暗き村政の下に在るを潔しとしない。

この上は村税不納を決議すると共に九島村から分離し改めて宇和島市に編入方の実現を期するものである。

この機会においては県は公平なる判断によりこれが実現のために援助を乞う。

(昭和8年) 11月1日    三浦鐵蔵 外五十九名

「山村豊次郎傅」引用

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坂下津三島神社の

その後、翌9年に至って、九島村は一転して全村を宇和島市と合併するという機運が高まった。

それは、坂下津の日振新田(現・坂下津産業団地)を埋立てて近江帆布、酒井綿布を誘致する計画が具体化した事が主な理由であったようだ。


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今も残る「日振新田」の地名

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宇和島自動車の創立






宇和島自動車会社が創立されたのは大正7年12月である。これが地元最初の「自動車登場」であった。資本金5万円、本社は堀端通に置いた。

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旧堀端通 左に見える林のあたり

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昭和6年の地図


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宇和島自動車創業の地



当時愛媛県下で旗上げをしていたのは大正5年西宇和郡八幡浜の伊予自動車、7年松山で開業した愛媛自動車、同年東宇和郡野村の宇和自動車、次いで宇和島自動車というわけで、換言すれば4番目の会社創立であった。
何れも所有車両は少なく、宇和島自動車が免許を取ったときには僅かに「11号」であった。
創立の中心人物は香川角次である。その頃の郡部の陸上交通機関は北は近永まで軽便鉄道があるのと南は岩松まで馬車があるのみであった。

香川は宇和島警察署の元刑事だったので役目柄各方面に面識が多い。
特に佐伯町の醤油醸造業中平荘作、追手通の呉服商上田仁一とは親しかったので真っ先に相談すると協力を得る事に決まったので漸く腹が出来、兎に角株式の募集に着手した。

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取締役社長に香川角次、取締役に中平荘作、上田仁一を選任した。
而して最初の営業路線は僅かに宇和島、畑地間の一線だけであった。後に至って漸く宇和島、城辺間の認可を獲得して走らせるようになったが、当時の所有車両は数台、それも定員6人乗りの小さいものであった。

斯くて大正8年2月15日となる。この日は晴れの試運転が挙行されることになり吉田までそれを走らせる事になった。
然るにその日の午後、意外にも思わざる大きな椿事が起こった。
それは吉田高光間の知永峠において自動車が転落して死者を出すに至ったのである。
県下最初の事故となったわけである。


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この惨事で死亡したのは横新町の老舗で「しわく屋」の主人兵頭新吉、四国銀行の上田某であった。
その他重軽傷者3人である。運転手は左足骨折を負う。墜落した車は牛車がこれをひいて本社までこれを運んだ。

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昭和6年の地図

この事故があって後は殆ど客は恐れて乗る者が少なくなり空車で走らせる事も珍しくなくなった。爾来十余年が経過した。当然の事ながら経営は赤字続きとなっていた。

この時代、国鉄予讃線松山開通に際して、海の覇者である宇和島運輸は顧客を奪われ大きな悩みを抱く時期に直面した。
其処でこの際、自動車会社を新設する計画を立てた。時代は昭和三年となっている。


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而して運輸省へ自動車会社創立の認可を正式に申請した、然るに図らずも不許可となった。何故かといえば当時地元には宇和島自動車があり、一歩出れば八幡 浜、大洲、三瓶にも既に会社が存在している、と言うのが理由であった。これには流石の堀部(彦次郎)運輸社長も全く当惑した。


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宇和島運輸株式会社社長室(村田蔵六氏提供)


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宇和島運輸株式会社会議室(村田蔵六氏提供)

偶々香川社長はこれを知って、奇貨おくべしとなし、秘かに売り込みを策した。取締役の中平荘作と堀部社長の傘下というべき三原理吉が交渉して買収の交渉が纏まった。

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三原理吉とは、三原産業社長

然るに最後の一幕となって香川社長が面目論にとらわれ、「宇和島自動車が身売りをしたと言われては僕の顔が立たない。合併の形式で引取ってくれ」と注文をつける。
やむなく架空の「第二宇和島自動車会社」を創立した形式をとり合併を条件として認可を得た。





そして筋書き通り昭和4年1月、正式に合併、社名は「宇和島自動車株式会社」をそのまま踏襲した。

↑ 異説あり
第二宇和島自動車が宇和島自動車と社名を戻したのは昭和12年らしい。

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昭和4年「第二宇和島自動車」


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第二宇和島自動車の名前が載っている昭和6年の地図



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官報に拠れば、昭和12年「宇和島自動車」に社名変更

史実は

大正7年宇和島自動車創立ーーー昭和3年第二宇和島自動車創立、昭和4年宇和島自動車を合併ーーー昭和12年宇和島自動車に社名変更

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会社総監 日本経済新聞社 1971年

社長は堀部彦次郎、副社長は香川角次、所有車両は20台、路線は宇和島を起点として東に吉田、卯之町、松山、南は柿之木、御槙、岩松、御荘である。
斯くて宇和島運輸は海上に次いで陸上交通界へ一歩を踏み出したのである。
これが宇和島自動車会社の揚々の起原である。


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乗合自動車総覧 鉄道公論社出版部 昭和9年

宇和島自動車はその後も長く経営に苦しんだ。
昭和16年、数々の経営改革を断行した長山社長の後を襲い村重嘉三郎が社長に就任、戦後は独禁法により宇和島運輸と経営が分離された。
同社長の下で血みどろの努力をし従業員1000人以上を抱えて「大宇和島自動車」を築いたのは、創業より50年が経って後の事であった。
「宇和島の明治大正史」より抜粋

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昭和37年、堀端町の宇和島信用金庫と、堀端通の宇和島自動車と本社の土地交換が行われた。車庫に近い堀端通に本社を建てたい宇和島自動車と中心部に出店したい信用金庫との利害が一致した結果。

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昭和28年頃の地図



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当時の堀端車庫(昭和30年代と思われる)

塀の工事をしている宇和島市立病院、山口ラジオテレビ店、教会、やくも旅館、岩佐は理容店などが見える


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昭和45年
移転とパチンコ屋になると言う噂 

昭和37年の新聞記事


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恵美須町の宇和島自動車

昭和30年代


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夜間

花屋旅館とか、色々な広告



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電飾のない状態

なんとこっちの方が新しい

信号機が設置されるため、取り除いたらしい

私が覚えてるはこっちかも



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宇和島自動車の変遷


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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制


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「第八くしま」

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辰野川、最後の橋から

この橋の名は「辰野川橋」






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旅客定員250名



2016年4月、九島大橋の開通と同時に廃止になった、宇和島市ー九島間を結ぶ唯一の交通機関だった九島丸。

そもそもの発端は昭和12年(1937年)九島の向井三治氏等による「九島発動船組合」創業による。
(余談だが、九島の古老が九島丸の事を「はつど」と呼称するのはそれらの名称に拠るものではないかと推察する)
(第三九島丸、第六九島丸)を建造就航と同時に当時産業組合(後の農協)がこれに経営着手することになり、昭和15年第十一九島丸、翌十六年には第十二九島丸を建造、航路便の拡充を図っていたが、戦時中の石油事情その他で、統制が叫ばれ盛運汽船との合併の交渉に対して県及び各方面より干渉されたがこれに応じなかった。

十九年になって戦争の苛烈さを増して来るにしたがって統合問題が再燃、翌二十年二月に統合されたものであるが、早くも自由経済時代を迎えた二四年には九島路線定期便を九島農協の手にとの声が高まりその後二回にわたって協議、本年(昭和二六年)八月にその交渉が漸くもたれ実現の運びとなった。

九島農協に移管して就航したのは二六年九月五日であった。
(参照 宇和島日日新聞


向井三治
明治25年、九島村国応に生まれる。昭和9年、30歳の若さで、九島村村会議員となり、宇和島市との合併に尽力。合併後の2回目選挙で宇和島市議に、その後4回当選、昭和22年から県会議員となる。(宇和島タイムス参照)

商号 合資会社九島発動船組合
本店 宇和島市本九島1725番地
目的 貨物運送
設立年月日 昭和13年5月8日

社員(無限) 田中 惣八 本九島
       向井 三治 石応
       島原 満吉 本九島
       中田 政吉 百之浦
社員(有限) 向井 傳蔵 石応
       西山實太郎 石応

代表社員 田中惣吉

存立の時期 設立の日より満20年

船名    船籍地 所有者

第6九島丸 宇和島 藤田定吉
第3九島丸 九島  (組合)


sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 4,000円

完全予約制


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愛媛県有形文化財(歴史資料)「篠山山形模型」

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2012年2月13日(月)

宇和島市立歴史資料館において、歴史資料では2件目となる愛媛県有形文化財として指定された「篠山山形模型(宇和島市藤江、多賀神社所有)」が報道陣に公開された。

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プロフィール

まーきみ。

四国の片隅で「気功的な整体施術」しています。
世界で一つだけの、ココロとカラダが喜ぶ究極のリラクゼーション&トータルヘルスを目指して。
家内はフラワーエッセンスとヒーリング、ヒプノセラピーなどやっています。
夫婦で力を合わせて

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