制服の出来たのは大正時代でそれは紺地に折襟の洋服、一見すると今日の自動車の女車掌の着ているようなものに似ていた。(画像参照)同時に黒靴が登場した。しかし制服はそれから後、一二度変化した。

市立病院の裏庭に、「愛媛県立宇和島高等女学校創立の地」の碑がある
大正9年6月、県視学だった中矢が校長となり、翌10年4月までに田原実教諭をはじめ、15人の教員が転校または退職。続いて5月、三好豊太郎教頭の転校説が流れた事から23日3年生77人が登校拒否による留任運動を開始した。
25日4年生(本科21回87名)62名も同調し、教員異動の真相究明、舎監更迭の理由、校長不信任などを含む12カ条の質問状と血判の退学届を校長に提出
この間、高畠亀太郎県議、中平常太郎町議らが調停に奔走した。
県視学が来た28日、首謀者ともくされた2人は諭旨退学、他のスト参加全生徒は停学処分、しかし、停学処分の生徒全員が諭旨退学血判状を提出したため6月1日、県学務課長も来て翌2日の父兄大会に出席、大会決定により3日、父兄は生徒同伴で校長に陳謝、同日、停学処分は解除され、生徒は4日から登校した。
「愛媛県百科大辞典」

宇高女(宇和島高等女学校、現・宇和島南中学校)がまだ桜町にあった頃です。(現在の市立病院・記念碑あり)当時の校長さんは中矢と言う人でした。ところがその中矢さんが検定出の人だったためか、大学、高等師範の出身の人々を転勤させて、検定出の人を入れてゆくので私たちはこのやり方を非常に不満に思っていました。
たまたま科学の三好という先生が転任になることを知り、今までの事もあるので私たち生徒は三好先生の留任運動をはじめたのです。これが導火線となって遂にストライキにまで発展していったのです。
私たちは「この学校を大改革しなければならぬ、そのために私たちが犠牲になっても仕方がない」という悲壮なまでの決心をしてこの運動をはじめました。
中心は私たち3年生でリーダーは中平さんさん(中平市長の娘さん)でした。そしてまず私たちの気持ちを書いた嘆願書をつくりましたが、それには共鳴者の血判を押すという騒ぎですよ。もっとも指を切ると痛いので指を糸で縛って針でついて血を出しましたが、それでも皆「痛い痛い」と顔をしかめながら血判状を作りましたよ。
また夜は、皆が自宅や寄宿舎を抜け出して4,5人グループをつくり、市内の名士と言われる人々を廻って我々の真意を話して理解を求めたものでした。
提灯をつけてあちこち歩きまわった事などが昨日のようにまざまざ思い出されます。高畠亀太郎さん、樋口虎若さんらの家を廻りましたが、父兄の有力者だった中原渉将軍の家に行った連中は「三尺下がって師の影を踏まず」と言う例えを知っているだろう生徒の分際で先生に楯突くとは以ての外だ」と大説教を受けほうほうの態で逃げ帰った組もありました。
私たちはストライキ中、裁縫室に立てこもっていろいろ密儀をこらしていましたが、一方先生方は、連日職員会議で大変な騒ぎでした。
私たちの主任だった某先生等あがってしまい、うろうろしており、生徒が肩を叩いて「大したことはやらないからあわてることはないですよ」と励まされる一コマもありました。
一週間ばかりストライキを続けた頃、父兄の有力者たちが中に入り、ようやく解決しました。
そして私たちの行動については、動機は美しいが、その方法は学生らしくないという事で、一週間乃至三週間の謹慎になりました。私も2週間の謹慎になりましたが、自分が悪い事をしたという気にはなれませんでした。私だけでなく皆同じようだったらしく、処罰されたというジメジメした気持ちは持ってなかったようです。
解決後のある日、市役所横の公会堂(戦災で焼失)で父兄と生徒が集まって学校側に謝罪する会が開かれました。赤松泰包さん、山村豊次郎さん、太宰孫九さんらが父兄代表になって学校側に謝りました。
女学校のストライキと言えば珍しく、この事件は社会から大きく注目されましたこの事件は文部省をも動かしたようです。
騒ぎが収まってほどなく、中矢校長は、県の視学に転任となりそして翌年の春には高等師範出の先生や上野音楽学校出の先生が次々とお出でになり、結果的には私たちの要望はほとんどかなえられました。
あの頃のクラスメートはもうおばあちゃんになってしまいましたが、それでも時折開く同窓会では皆若いあの頃にかえってはしゃいでいますよ。
布水尾さん、布川すみれさん、太宰文江さんら皆あの頃の闘士でしたからね(笑)
山口国子さんのお話より



宇和島高等女学校の碑
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