歴史

豪冨鑑 明治19年7月改正

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2017年、鬼北町の旧家から出て来た、所得番付のようなもの





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(中央)
豪冨鑑 
座位不動御免

伊豫國 南宇和、北宇和 両郡 農商家

採團

ヨ奥浦 中田藤三郎 ウ北川 清家盈蔵(えいぞう)

ヨ本町 鳥羽古坪  ヨ河内 山下重治郎

ヨ上鍵山 栄池雅膽

(以下略)


差添 ヨ蒋渕 宇都宮一平 ウ松丸岡田忠一郎

後閲 ウ竪新町 堀部徳之焏

補助 ヨ国遠 今西林三郎



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(右)
明治19年7月改正


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明治19年4月17日 御届


sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 4,000円

完全予約制




畑枝の刑場(宇和島大観)

畑枝の刑場



封建時代の死刑囚は総て刑の執行を公開したもので旧宇和島藩の如きも死刑囚はその執行前に町内を牛に乗せられて引き回されたのである。北町立正寺前の獄屋から引き出された死刑囚の道順は、六兵衛坂を通り、本町、横新町、竪新町、亀屋横町(三間屋横町)を抜けて再び本町に出て、愛宕町、笹町、神田川原、佐伯町、櫻町、蛤横町、鎌原通、樽屋町を裏町(ママ)に出て常念寺上手横町を抜けて丸穂の畑枝の刑場に送られるに決まっていたようである。
そして死刑囚は畑枝の露と消えるのである。当時両側の町家は悉く戸を固く閉め通行の人々は死刑囚の行く手を避けて死刑囚を見るものは殆どなかったとの事である。死刑囚に物を頼まれると後で祟られはしないかと恐れたからである。


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江戸時代末期の立正寺の地図
北町(現在の大宮町)


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大正時代の地図


立正寺前の獄屋

六兵衛坂、本町、横新町、竪新町、亀屋横町(三間屋横町)再び本町、愛宕町、笹町、神田川原、佐伯町、櫻町、蛤横町、鎌原通、樽屋町を裏町(ママ)に出て常念寺
(ママ、常満寺)上手横町、丸穂の畑枝の刑場

スクリーンショット (1856)
現在の地図



sasaki

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愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

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施術料金 1時間 4,000円

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愛媛県農工銀行沿革史

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株式会社 愛媛県農工銀行沿革史


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昭和12年発行




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「愛媛県農工銀行沿革史」に掲載されている「宇和島支店」(元、信義社)
支店開設前、木屋旅館内に出張所を設け事務を取扱っていたが、大正12年12月18日開設と同時に同市本町三丁目居村繁治郎氏の借家に移り(中略)
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昭和5年8月24日、同市広小路字広小路19-2元信義株式会社の跡を買収して移転(地図)
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後年の地図(29年)には伊予銀行広小路支店となり、現在は行員住宅になっている。

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大洲支店

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現在の赤煉瓦館



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明治33年1月重役写真


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玉井安蔵 清水村(現鬼北町)生まれ
戸長、村長、県会議員、衆議院議員など歴任
晩年は宇和島市の堀端通に住居があり、のちに市立宇和島病院となる
岡原丈一
城辺町長
山村豊次郎傳P19に(岡原寛少将本家)とある
親族の話では、岡原家は僧都の出身で、後年御荘の観自在寺の門前で商店を経営したという。
少将の姉は清水閑一郎に嫁ぎ、その兄弟はそこで修行して御荘町で菓子店を経営したという。

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南予案内

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玄米相場表(愛媛県農工銀行沿革史)
大正7年に米価高騰


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昭和10年

戎山も融資を受けた記録あり


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戎山の歴史 4 昭和9年



昭和9年


山村豊次郎氏頌功碑一戸別五銭宛集める事

1円なり

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部落台帳

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山村豊次郎 1 山村豊次郎頌功碑




昭和9年の戎山戸主
(20名)

大塚勇藏 形岡久吉  古島小太郎 鹿島千松 藤堂熊蔵 吉良寅平 古島十治郎 

濱田朝吉 早川武助 松廣弥三郎 鹿島松二(治)郎(定治郎長男) 木下音松

鹿島源太郎 早川トメ 益田繁助 河野國太郎 山本増吉 浜野初太郎 津江七太郎
益田英治(転出)

村田幸太郎(転入)






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昭和9年6月28日

部落集会開催

宇和島市九島村合併問題に附緊急総会を開き戎山部落条件案を協議す。


戎山部落条件案

1,道路を戎山部落人家迄完成さす事

1,電話を当部落迄完成さす事

1,合併後工場設置の暁は部落内の子女を市が斡旋して概工場に使用する事

1,現村有地を公会堂敷地に無償で貸与する事

右決議し、委員区長が村当局委員会に出席する事

衛生組合長益田栄治氏部落移転に附後任組合長鹿島源太郎氏に決す


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部落台帳
九島村雨乞の記述

九島村十人踊?


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昭和9年度8月28日部落集会

来る市会議員選挙に対し保手、戎山、坂下津三部落に於いて候補者の選出の件に対し当部落条件案の電話、消防設置等を中央なる地又は大衆の利便を計る地、将来有望なる宇和島市湾に面したる地文化機関を設置する事の問題を解決を付けその話の円満の解決の根に候補者を選ぶことに決す。

当日、村田幸太郎部落加入を承認せり。同氏酒一升を部落に出せり。



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昭和9年度10月17日

来る後任区長推薦の件に付当部落集会をなせり。生来部落として合併問題条件遂行や色々難問題に直面し目下戎山部落非常時の時である。区長をお互いに争う事は不円満の根であることを区民が自覚し選挙投票を廃し区長推薦で後任区長を選出し満場一致で差の二氏を推薦せり


 区長  古島朔君
副区長 山本増吉君


昭和九年11月7日
納税組合組織中決算承認に附き協議す。納税組合は国家三大義務の一に基づき精神的に目覚めるを一応考慮して組織する事として散会

中計算

五円 区長手当 二円五十銭 副区長手当 二円二十銭 電柱年貢 二十本
(以下略)


昭和9年12月13日
部落集会

1.施設水道敷設の件
2.街灯設置に関する件
3.納税組合設置に関する件


1市当局に補助を申請をなし、並びに敷設の経費その他調査をなす事
2部落街灯を4か所設置、場所は奥の石山、古島小太郎氏地先、杉の谷部落所有地先、鹿島千松氏地先
とす、但し負担は部落が半額と最寄りの関係者が半額を支給する
3は区長副区長が戸別訪問をなして了解を得て法規の定員を得れば一応組合のを組織し、好結果を得れば後年より部落一定の組合を組織する事に決す。


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部落台帳

昭和9年

12月起

12月2日

形岡清一郎君 満期退団に付きご祝儀
一金5円也 17戸、一戸15銭徴収







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戦前の中等学校のポートレート

宇和島中学端艇部昭和17年頃



ゆうこりんに亡くなった叔父さんの写真を託された。

捨てるわけにもいかずさりとてずっと保管するにしても後年同じ問題にぶつかる、どうしたものかと言われ、関係者を通じて東高に相談したら、資料室があるので全部引き取ってもらえることになった。
何れも昭和17年頃と思われる


宇和島中学プール昭和17年頃
プールの写真


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他に、このようなアルバムもあった


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なぜか校章が違う帽子も?

卒業アルバムでも無いようだし、なんなんだろう?と思っていたら
ある本にヒントがあった

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「私の昭和史 宇和島ふるさと交遊録」木下博民著

それによると

「商業学校では、卒業記念の集合写真のほかに、各人でプロマイドのようなやけに気取った写真を、松浦写真館あたりで写して、交換し合うのが流行した。」

その中にはサインがあるものもあったという。

他の学校の学生の写真があったのも頷ける。各自が保存したものだろう。



それは同時期に発見された、宇和島高等女学校の卒業生と思われる人の持っていたアルバムにもあった。


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流石に女子はサイン入りは無かった

これも母校である宇和島南中等学校の資料室に寄贈した。


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戎山部落協議録 1 広見川転落事故への見舞金

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鬼北町小松

旧三島村


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最近図書館で借りた、愛媛新聞 夕刊うわじまの「皮てんぷら」

地元の名士がつづるエッセイ、平成元年発行

その中に鬼北町の方の作品に「自動車事故第一号」と言うエッセイを拝読すると

大正15年11月5日に、小松の通称「保木の坂」と言う難所で、陸軍第11師団の機動演習が行われ、折からの大雨も災いして、貨物自動車が広見川の岩盤に14メートル落下、軍曹1名、伍長勤務上等兵1名、東宇和郡出身御用商人1名が死亡、5名の重軽傷者を出したとあった。

以下引用
3日前から降り始めた雨は風も出て土砂降りとなり、広見川もかなり増水したようである。当時としては珍しい事で、陸軍第十一師団の機動演習が行われることとになり、松山歩兵第二十二連隊兵員千二百名の部隊が広見町(旧三島村)を通過するとの報を受けたので、地元では村役場を中心として、在郷軍人会、消防組、青年団、婦人会、及びその他の団体が協力して通貨部隊を歓迎しようとして待機していたのである。
 ところが午前十時ごろ突然、小松の通称「保木の坂」で軍の貨物自動車が転落したとの報告が三島村役場(現・地蔵味噌)へ入ったから大変である。直ちに伝令が各団体に飛び救援活動が始まった。現場は改良された現国道とは違い急な下り坂で、14mの高さから車は一回転して岩盤に叩きつけられて大破、同乗の兵員はもとより積荷は散乱、車体は井関の水面に没していた。この事故で、車で先行中の軍曹1名、伍長勤務上等兵1名、東宇和郡出身御用商人1名が下敷きとなり即死、5名が重軽傷者を負い啓発名は死傷した。事故後は軍の指揮で遺体や重軽傷者は密かに松山に送還され、車両などは在郷軍人会と消防組の手によって引き上げられ多様であるが、これをこの道路の自動車事故第一号と認識している。
引用終り

00-2022-05-23 22.18.21

そこで戎山協議録の記録の中に、それと思われる事故が記載してあった。


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大正15年11月
「松山連隊秋季機動演習の為宇和島へ出張の際三島村広見川へ自動車転落の際死亡重傷せられし辻本軍曹他3名御見舞金として一戸に付6銭6厘20戸分1円32銭集めたり」(カナは平仮名表記に修正)



おそらく、宇和島市、北宇和郡など幅広い自治会単位で、見舞金としての寄付が募られた事と思うが、「皮てんぷら」によると、軍の機密であったのか、当時の演習に参加した地元出身者には詳しいことは知らされず、旧村史にも何の記録も残されていないという。

詳細な演習の記録は、高畠亀太郎日記に記されている。
しかし、事故の記載はない。知らなかったとは思われず、或いは軍に機密として記録に残すことを禁じられたのかもしれない。

以下引用


大正15年11月4日(木)雨
5日(金)
(前略)
松山二十二連隊の歩兵に、善通寺の騎、工兵等の特科隊を加えたる約一個連隊以上の軍隊、演習の為行軍あり。川筋、三間方面を経て正午当市に到着。吾家のの前を隊伍を整えて続々通過し、午後三時泉屋新田市有埋立地の広場にて参列式を挙げらるるを以て、行きて観たり。軍隊は皆々市中民家に宿泊し、吾伊吹町へも三百余名割り当てられ、吾家は予ねて第一大隊本部、大隊長宿舎と定められ居たれば、夕刻夫々来着あり。二階一二畳の床に大隊長、同副官、主計の三将校を、次の八畳に下士官二名、兵二名を入れ、夜、饗応す。十時頃迄談じて、孰(いず)れも就寝せられたり。
好晴

十六日(土)
業用を為し、正午より伊達家主催の宿営将校招待会に天赦園へ行く。小泉十一師団長、継二十二連隊長等、百数十名の軍人に、市当局及び、市会議員加わりて交歓し、園遊会の催しもありて、午後三時帰宅す。今夜もわが家へ宿舎の軍人を待遇す。晴

十七日(日)
朝五時、わが家に宿泊の将校皆出発す。

各隊隊伍を整えて、孰れも卯之町方面に行進したり。
(後略)
高畠亀太郎
この年、県会議員に再選、再婚、製糸会社経営


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大正ー昭和10年代の宇和島市地図と変遷

大正11年の地図


大正11年地図カラー

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サムネイル



泉屋新田
朝日町という名称は無い。泉屋新田と言った。

12年くらいから朝日町と称した。1-6丁目があった。

雪輪サイダー
大正綿布
火力発電所
製氷所
などの会社名が見える。
朝日町本通は直通道路となっている。

この年、皇太子殿下がこの道を通った。
樺崎のおあがり場から船大工町の新大橋まで

まだ「朝日運河」はありません。

大正11-13年頃、内港を浚渫してその土砂で埋め立てて朝日町の形が出来た




和霊神社周辺
宇和島駅の次の駅は「下村駅」近くに三島神社があった
上に「第二青年会館」という名称が見える

丸今綿布は今の城北中学校の所

この時も入らずの森を斬る計画があったけど業者が祟りを恐れて切る人がいなかったらしい。

昭和60年代、城北中学校新築のおり、市民から陳情のあった入らずの森の保存は市議会が否決したので、何時切られてもおかしくない状態である。
和霊神社南側に通称「桜筋」と花街があった。東雲なども最初はここで開業した。それより鶴島町東通りに通じる橋が出来た。榎橋と言う名前だったが通称は「芸者橋」と呼ばれた。
北新橋の一つ上流の名前のついてない橋である。

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四十番札所 龍光院、とあるが「四十番札所観自在寺奥の院」が正しいと思われる。

「日本酒類会社」とあるのは、今のJAあたりかな?

須賀川は付け変る前、今の市役所辺りに河口があった
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大正11年大地図b大正11年大地図d

サムネイル



大正十四年の宇和島市の地図

大正14年宇和島市街図(表)30


日振新田、小笠原新田、朝日町に「養魚場」が見える。

何を飼っていたのか?

この時期、食用ガエル(ウシガエル)を養殖してたという話を聞いた。
今でも帰化したウシガエルやアメリカザリガニを見ることが出来る。

朝日運河はまだできて無いが、この頃出来た。前方の海を埋め立てしている。


大正14年宇和島市街図(表hasi)


大正14年宇和島市街図(ウラ)30
大正十四年地図裏面広告
石丸製綿所 新京にも工場があったのか?


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大正14年宇和島市街図(表)30b大正14年宇和島市街図(表)30d

サムネイル





昭和三年の地図

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朝日運河が表示されている

埋め立て地、予定地も

内港の浚渫予定も

県道も太字で表されている。現在の国道56とは異なる



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現在の国道と当時の県道

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昭和29年の新聞記事

県道がいつ、どのような経路で現在の国道56号に変って行ったのか、細かいことは不明であるが、当時の新聞に「船大工町から追手に至る第二種国道を、同じく船大工町から栄町を経て丸之内和霊神社に変更するよう中平市長が運動した、とあり変更の様子を知ることが出来る。

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サムネイル






昭和6年の宇和島市の地図


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その裏面


00-昭和6年 (08)


石崎本店
本町3

堀部本店
堅新町(たつしんまち)

猿のいる店
豊岡洋服店
(鶴島町中通)

宇和島運輸
堅新町



00-昭和6年 (10)

鹽屋本店
舟大工町

河野本店
本町

御旅館 蔦屋
丸之内


サムネイル(詳細拡大)

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昭和8年の宇和島地図
昭和8年地図(小・表)

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サムネイル


裏面
昭和8年地図(小・ウラ)


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昭和8年地図


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サムネイル

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昭和10年の地図

昭和10年


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付け替えた後の、須賀川の埋め立て途中の様子が図面に明記されている。
そこに縦断する2本の破線は、汽車道(港湾鉄道)の予定地と思われる。

その沿岸の築地の花街も描かれている。

「河身北陽を貫く」須賀川付け替えのため、河床に沈んだ花街の一部は、ここ築地に新天地を求めて移転を計画したのは昭和4年の事であった。

当時、九島橋と呼ばれた「板島橋」も明倫小学校や宇和島高等女学校の移転後の位置も描かれている



昭和12年の地図(表)

昭和12年地図(表)




日振新田の近江帆布

右上の別紙「戎山」「酒井綿布」など、他の地図にない場所や会社が書かれているのは珍しい。

主要バス路線が描かれている。
昭和12年地図(ウラ)

昭和12年地図(ウラ)

宇和島の銘菓が記されていて、菓子製造が繁華だったことをうかがわせる。

丸之内和霊神社の由緒も興味深い

第2宇和島自動車など、現在の人は知らない宇和島自動車の由来なども伺わせる時刻表も貴重な資料である。

昭和12年地図(表)a昭和12年地図(表)c

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サムネイル





追加

明治43年

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詳細

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戦後の地図はこちら


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宇和島ショップガイド加盟店 昭和26年

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宇和島ショップガイド加盟店

昭和26年

以下に現存する店 

現存しないが行ったことのある店 


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間違いがあれば、ご指摘ください。


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昭和30年代の宇和島自動車の画像





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昭和35年頃


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このロケも35年頃




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37年の記事



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37年に、信用金庫と本社を交換した宇和島自動車

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28年頃の地図


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錦町の営業所か?

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堀端車庫

山口テレビラジオ

山本レンズ堂

アライアンス協会


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旅館(やくも)

岩沢理容店

など

市立病院の塀が工事中

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鶴島整備株式会社

高串川が流れる

宇和島缶詰の煙突が見える





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遠くの山の煙突は?

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宇和島自動車学校


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昭和36年頃出来たはず

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ギャランΣか?

だったら年代は新しい

sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制





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郡是(グンゼ)宇和島工場の閉鎖(昭和27年)(おまけ 融通座)



グンゼと言えば、パンティーストッキングyan


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テレビのコマーシャルで刷り込まれるほど聞かされた。


「郡是製絲株式會社」は郡の是である意
創業地の何鹿郡(現・京都府綾部市)の地場産業である蚕糸業を、郡(地域)を挙げて振興・推進していこうという、元農政官僚で殖産興業の父と呼ばれた前田正名の趣旨に基づいている。
グンゼ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戦前は蚕糸業が主であったが、徐々に人絹(レーヨン)に取って代わることになる。



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昭和28年の新聞記事

27年1月に閉鎖した、中の町で操業していた「郡是宇和島工場」


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昭和14年、桐田製紙の跡地を買収して高知の工場を移転、創業とある。

2,3年前までは二百数十人の従業員がいた。

原料入手困難から来る生産能力の低下で、年間500万の赤字、ついに1月の旧正月旧家と言う名目で操業を停止して、閉鎖の手続きに入る。この時の組合員は73名。おそらくその大半が解雇されたと思われる。

当時の市長中平常太郎が存置の要請をしたがすでに手遅れであった。

その場所を探していたが、昭和6年の地図に「桐田製糸」を発見した。

昭和14年頃は「宇和島製糸場」という名前になっていた(経営者は同じ)


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場所は現在の京町

「はちのす」~「四国電力寮」あたりか


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さらに、薬師谷入り口の大師堂に、桐田の名前を刻した香炉発見、住所も中ノ町


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昭和45年の地図


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昭和30年の航空写真

あの丸印のところと思われる


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ちなみに右上の矢印の建物は、昭和40年に閉鎖した融通座だと思う。

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昭和30年宇和島市街航空写真

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訪問ありがとう
プロフィール

まーきみ。

四国の片隅で「気功的な整体施術」しています。
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家内はフラワーエッセンスとヒーリング、ヒプノセラピーなどやっています。
夫婦で力を合わせて

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