エッセイ

愛媛県農工銀行沿革史

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株式会社 愛媛県農工銀行沿革史


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昭和12年発行




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「愛媛県農工銀行沿革史」に掲載されている「宇和島支店」(元、信義社)
支店開設前、木屋旅館内に出張所を設け事務を取扱っていたが、大正12年12月18日開設と同時に同市本町三丁目居村繁治郎氏の借家に移り(中略)
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昭和5年8月24日、同市広小路字広小路19-2元信義株式会社の跡を買収して移転(地図)
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後年の地図(29年)には伊予銀行広小路支店となり、現在は行員住宅になっている。

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大洲支店

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現在の赤煉瓦館



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明治33年1月重役写真


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玉井安蔵 清水村(現鬼北町)生まれ
戸長、村長、県会議員、衆議院議員など歴任
晩年は宇和島市の堀端通に住居があり、のちに市立宇和島病院となる
岡原丈一
城辺町長
山村豊次郎傳P19に(岡原寛少将本家)とある
親族の話では、岡原家は僧都の出身で、後年御荘の観自在寺の門前で商店を経営したという。
少将の姉は清水閑一郎に嫁ぎ、その兄弟はそこで修行して御荘町で菓子店を経営したという。

無題
南予案内

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玄米相場表(愛媛県農工銀行沿革史)
大正7年に米価高騰


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昭和10年

戎山も融資を受けた記録あり


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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制



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菊屋

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マルオー癒しdayの日、晴ちゃんに誘われて菊屋に行った。



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前に行ったけど、回転時から行列が出来て、はしから順番に詰められたので、あれ以来行ってない。


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この日はみんな居るので心強い

画像のメニューは味くらべ


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カレーうどん

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ラーメン


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もりそば


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晴ちゃんは?


菊屋は戦時中、外食券食堂として紹介されていた。店の名前は無かったのに客が「菊屋そば」と言い習わしてそれがそのまま屋号になったと聞いた。


津村寿夫氏の「宇和島の明治大正史」には下記のように記されている。

明治時代の城下町のありさま


本町筋は宇和島の目ぬきの町であった。有力な商店が揃っている上に何れも気品が備わっていた。

中略

この外に横丁には「彦さん蒲鉾」「菊屋そば」が既に有名となっていた。前者は土居彦太郎の経営で正直一図の爺さんでそれが信用を博した。最初は蒲鉾一本三銭、味竹輪、味テンプラは共に一銭五厘、皮テンプラは五厘であった。
後者の主人は前田菊太郎、名人気質の勤勉家で生粋のそばを全部自分で手打ちにする。かけ物は「そぼろ」と「なんば」の二種類だけである。一杯が二銭、今日から考えると双方共に夢のようである。都会などから客が来ると各家では大抵ここに案内する。「彦さん蒲鉾」も「菊屋そば」も自分で付けた名称ではなく、誰いうとなく需要者が斯う呼ぶようになったものである。









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うわじま人形と中平常太郎(木屋旅館)

宇和島市の中央町と丸穂橋の間に流れる辰野川の上に並んで同じ名前の橋がある





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中央公園の石碑


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撰文は久松定武愛媛県知事



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中平常太郎

昭和26年宇和島市長就任

本町二丁目で醤油醸造業を営んだ中平弘蔵の子息


中平は記録によれば方面委員会長をしてた人、方面委員とは現在の「民生委員」に当たる職務と思われる
最近話題の「うわじま人形」の立案者の一人と言う。

大正期以来の方面委員活動を通して金銭による救助の弊害を感じていた中平会長らは、授産場を創設して失業者救済と窮貧者の生活安定を図る必要性を痛感していた。(中略)
昭和四年五月二二日、市内御殿町の民家の二階を借りて「宇和島市民共済会授産場」の看板を掲げ、方面カード登録者中より一五名を選んで宇和島人形(おもい で人形ともいう)を製作販売し、従業員に一日(七時間半の就労)五〇銭の標準賃金を渡していたが、同年秋頃からは団扇製造も事業種目に追加することが計画 された。

データーベース「えひめの記憶」方面委員制度の進展と変容


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その「うわじま人形」の展示があると新聞で知った


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時代は前後するが、昭和17年10月ごろの新聞記事

宇和島愛育園

写真は中平常太郎






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木屋旅館に行った



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バル氏に会うのも久々


って、一宮様のお祭りで会ったけど( ;∀;)




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玄関に早速お目見え



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中にも


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展示品がずらり


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その後、中平らは団扇製造も手掛ける



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 昭和五年六月丸亀市から団扇職人森太郎吉を招へいし、彼を講師にして、七月には市内の失業者より一三七人を集めて団扇製造講習会を開催した。二か月に及 ぶ講習期間で、骨作り、柄塗り、張立て、仕上げなど団扇製造の各工程に欠かせない技術を習得した従業員が養成された。また、同年七月二九日には理事会が授 産場の新築を決議し本格的な授産事業を進めるようになった。この間、販売用の製品も作られるようになり、宇和島の和霊神社にちなんで、「和霊団扇」と命名 された団扇が昭和五年七月二三日の和霊大祭当日、同境内で受講生によって売り出された。昭和六年四月、台湾で開かれた愛媛県物産見本市(本県主催)には中 平会長も出席し、会長自らが台北、高雄、嘉義など台湾の主要都市を巡って和霊団扇の販路開拓に努めた。この時、中平は宇和島人形六〇〇個、和霊団扇一五万 本の注文を取ってきている。前年から計画していた授産場の建設も、愛媛県水産試験場本館の払い下げを受け、昭和六年中にこれを市内妙典寺前に移築して設備 を整えた。
 大量注文と設備拡充により、生活困窮者や失業者の中から新規に従業員を受け入れ、授産品の生産拡大が進められた。昭和六年六月からは 方面委員で市民共済会副会長に就任していた松本良之助か場長となって日勤するようになり、県や市の補助金に加えて昭和七年度以降は恩賜財団慶福会、岩崎男 爵家・住友男爵家・伊達侯爵家などからも補助金を受けた。この間、授産品製造に適さない人のために、行商部を新設して団扇、粉末石鹸、脱脂綿などを販売し た。昭和八年度の販売成績は好調で、団扇だけでも七〇万本、二万一、四七五円の売り上げであった。また昭和一〇年度、授産場に約一三〇名が常勤するように なった。
 宇和島市民共済会は授産事業のほかにも、昭和三年八月以来、「貯金奨励内規」を定めて貧困家庭における飲酒、子供の買い喰いなどの是正 を行い、節約した金銭を貯蓄にまわす運動や、方面委員であり宇和島市・北宇和郡医師会長でもあった樋口虎若の努力で方面医制度を設け、市民共済会が紹介し た傷病者には安い医療費で診療してきた。また、米麦、味噌、醤油を原価で販売する篤志商店制度を設けて、貧困かつ疾病などの理由で共済会から生計療養費 (一日五〇銭、一か月限り)を受けている者を援助することなど様々な事業を行っていた。昭和九年一二月一日、宇和島市民共済会は財団法人化し、昭和一三年 四月からは市内妙典寺前に更生家屋昭和園を開設、一か月一円の低家賃で住宅を提供した。この年、市内和霊町にも授産場を新設、ここでは下駄の製造を開始し た。また昭和一六年四月にも市内大石町に、母子寮とその付属保育所愛児園を発足させた。




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こんなうちわも展示(当時もの物ではありません)



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この団扇は当時のものではありません

 

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昭和29年の新聞より

従業員73人

生産量は10万本とあるが、100万本の誤りと思われる。


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昭和31年ごろの記事(未確認)

従業員45人、110万本とある

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授産場は大石町とあるが、昭和6年の地図には妙典寺前になっている


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余談だが昭和45年には「美容理容学校」になっている(現在は新町)



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ここに移転したのか?

大石町

賀古町のよう見えるけど、背割り真直ぐではないようだ

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現在のパール荘


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この年、勲三等瑞宝章を

大宮庫吉氏とともに生前の授与

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おわり
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焚場(たでば)

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自転車で散策してて、廃船を見かけた

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訪問ありがとう
プロフィール

まーきみ。

四国の片隅で「気功的な整体施術」しています。
世界で一つだけの、ココロとカラダが喜ぶ究極のリラクゼーション&トータルヘルスを目指して。
家内はフラワーエッセンスとヒーリング、ヒプノセラピーなどやっています。
夫婦で力を合わせて

プライベートメッセージ

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