下草木川上流の池

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祝森、柿木川に

支流がある。


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その上流にため池があるみたいなので、行ってみます。


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柿の木川



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草木橋



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くさきはし


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この川は、下草木川と言います


※草木川は、さらに下流です



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昭和65年9月架設


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さらに行きます



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小さな橋あり




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段々寂しくなる

3月でした


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罠があるよと言う注意書き



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轍がある



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池の土手



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水面が見えた



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錆びた看板

注意書きだろうと思う



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さらに上へ


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屋根が見えた



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唐箕が転がっていた


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薬莢

捨ててはいけないらしい



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木のベンチ



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帰ります


sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制

板島橋物語 6 九島橋


2008年から始まったこのシリーズ

私が、このマニアックなブログを始めるきっかけになったお話です。

その「きっかけ」は、話せが長くなりますが、

そもそも、昭和天皇が宇和島に行啓になったのは宇和島市誌には「昭和40年」となっていましたが

私の記憶では41年だぞ、と言っても、それを証明するのに資料その他中々揃わなかったのが、郷土史に興味を持つそもそもの「きっかけ」でした。

現在の板島橋の架設は「昭和41年3月」昭和天皇はこの橋を渡って水産試験場へ向かいました。

決して万全と言えない古い木橋でなく、あたらしいコンクリート橋を渡ったのではなかろうか?という疑問を抱いたりと、色々調べる癖が現在も続いていて、それを知った方々より、色々な資料を提供していただくことになったのですが




九島橋(後の板島橋)

そんな風に手に入った写真



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九島橋


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昭和10年1月架設



九島橋と言えば・・・


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これでは?



いやいやいや


それわ。。。。


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九島

そもそも、九島の島には、こんな大きな橋を架ける大河は無いはず。

そして、地形からある推理が働いた


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この山って戎山ではないか?


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水産高前からの現在の写真

木が生えて少し形はいびつだが、よく似てる


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この崩落したように見えるのは、今は木が生い茂って隠れてるが、

私が子供の頃は大きな岩が露出してた。石切り場だと聞いた事がある



戎山は石切り場が数カ所あって、お城山の石垣にも使われたことがあると、教育委員会の菊池さんに聞いた事があった。
明治時代の石工の名前が宇和津彦神社の摂末社の手水鉢に刻されていた



余談だが、戎山は石山で、岩盤が海まで続いていると聞いた。

集会所を作る時も、難工事だったらしい







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そして、何度も何度も何度も読んだ(はずの)

木下博民先生の「板島橋」宇和島の予科練と平和への軌跡

この中にちゃんと書いてあった


小型バスが通れるほどの、しかも木橋だが「見るからにガッチリした」「延長140m、宇和島一の長橋」と1935(昭和10)年5月の地元紙「南予時事新聞」で「新宇和島百景(39)」なる連載絵入り記事(画・野中重吉、文・編集局同人)の一つに、この橋が加えられている。
九島村と宇和島市との合併問題は、近江帆布の誘致にはじまり、その実質的な成立は架橋であった、と「新宇和島百景」では述べて、橋名を「九島橋」と書いている。
文・同上

今ではその南予時事新聞(昭和10年5月)は宇和島市立図書館にデジタル化され保存、申請すれば閲覧が可能である。

その記事には版画のような、橋の画像と下記の文章が添えられていた。

宇和島市と九島村の合併も、内容的にはいろいろな条件を取り交わして成立したが、それを形の上において、来村川にさえぎられた、両者を結びつけた橋、それがこの九島橋である。
木橋ではあるが、見るからにガッチリした橋だ。延長140m、宇和島一の長橋でもある。
向ふに見えるのは建設を急ぎつつある近江帆布の工場、宇和島と九島との縁結びに仲人役をつとめた近江帆布。その下に架かる九島橋

近江帆布=合併問題
九島橋=合併成立
の、方程式が出来そうな風景でもある。が、何よりも我々が九島橋に立って感じるのは、みなと宇和島の急テンポの躍進振りだ(ひとし)


九島村との合併は、昭和初年頃、戎山保手部落が、九島村との分村、宇和島市との合併を陳情したころから始まる。この時の合併委員長、梶原計国は、若干22歳だったという。
九島議会は当初、難色を示し、議会は紛糾したが近江帆布の企業誘致を計画している宇和島市の強い要望もあり、急転直下全村合併が可決された。


その他の新聞記事にも九島橋の名があった


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不幸な事件だった



ここに橋を架けることになったのは、度々名前が出て来る、宇和島市が誘致した企業「近江帆布」と宇和事案市との契約による。

山村豊次郎傳に拠れば、昭和9年8月10日に議会承認された「近江帆布酒井綿布との契約」第3条で

「市は同新田(日振新田)に亘る幅員2間半の橋梁を向こう4か月以内に建設すべきものとす。但し工事費中6500円は会社より寄附す。

とある。

九島村が宇和島市に編入されたのは9月1日、契約発効がこの頃だとすると、約4か月後の10年1月の架橋年月は辻褄が合う。
九島橋という名前も、自然発生的に付けられた名前と言ってよいと思う。

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橋の架設場所は、現在の橋より若干下流、水産高の前辺り。



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昭和10年1月の架設の「九島橋」が4年後の14年3月には「板島橋」と変わっていた。

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板島橋の橋名の親柱は、長らく海中に没していたが、現在は引き揚げられて宇和島市歴史資料館の庭に置かれている。





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前方に立つ8人の男

工事関係者、役人、近江帆布、酒井綿布の関係者もいるかもしれない。



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男女約15にんづつの30名

教師と思われる男女各1名

画像から年齢を察するに、尋常小学校高等科位のように思われる。
尚、宇和島市の尋常小学校高等科は昭和3年に、第三小学校に集約され、宇和島尋常高等小学校となった。(現在の法務局辺り)
現在の城南城北、両中学校の前身と言ってよい。


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余談だが、この広範囲な学校統合は、市民の不評を買い盤石と思われた村山人気に陰りが出た。

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市制10周年記念 昭和5年8月

市制40周年が満の46年に開催されたのに、10周年は万9年

村山市長は、この年の10月に行われた市議会選挙で、支持されていた政友会が民政党に敗れ、市会では高橋作一郎氏を市長に選んだ。






余談
山村豊次郎傳に拠れば、昭和2年4月より、児童は第二小学校(現在の鶴島小学校、当時は城山下の、たばこ産業跡辺りにあった)に委託教授、とある。
さらに第一小学校(明倫小学校)も昭和7年には明倫町(現在地、文京町)に新築移転しているので或はそちらに通っていたのかもしれない。
下記資料参照

昭和2年以前は、前述の梶原計国氏も通っていたという坂下津小学校に通っていたのであろうか?









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昭和36年の記事

2200万円かけて現在の板島橋が作られた。


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辰野川、畑枝川河口の橋 3

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新畑枝川橋

右にきさいや広場、左に盛運社が見える。

河口の構造物は、橋のようだが銘板などは無いようだ?




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辰野川、畑枝川河口の橋 2 宇和島橋

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宇和島橋



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元々は、宇和島藩大阪蔵屋敷近くに架けられて橋。

昭和45年、川が埋立てられ橋が撤去される祭に大阪市から宇和島市に寄贈され、辰野川最下流(当時)に建設した橋の親柱として利用された。

昭和52年




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辰野川、畑枝川河口の橋 1

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辰野川の最下流の橋

地図では、宇和島道路の影になっている。



より大きな地図で 辰野川、畑枝川河口付近 を表示
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大楽寺前の橋

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吉田町喜佐方の大楽寺下

ここを通ってて、ふと目に着いた物があった
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保場川橋の付け替え



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津島町の下畑地と上畑地を分けている保場川に架かる橋が付け替え工事をしている





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橋本体は、大体出来上がったように見える




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親柱の銘板は、画像右後方に見える畑地小学校の生徒の直筆だと、広報に載ってた。





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立派な橋じゃ。



実は古い橋の画像があるので添付しておこう



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旧保場川橋



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昭和33年9月架設



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保場川橋




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シンプルで丸いけど、味わいのある親柱だ。



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下流方面

国道が見える



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上流方面

集落が見える

上槙に至る道路が通る




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未舗装の道路が、余計味わいある風景になっていた。




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きっちり改修せず、昔の面影が残った川



古き佳き風景は、今も健在だ。








保場川上流の橋

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国道56号線、下畑地


緑滝温泉の看板がある。

夏季は、枝が茂り見えなくなる。


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旧肱川町から河辺村へ 2 橡の木橋

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擁壁に安置された大師像 大正14年の文字が見える



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旧肱川町から河辺村へ 1 敷水 谷口橋 岩谷橋

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県道55号をここまでやってきた。

ここは山鳥坂



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訪問ありがとう
プロフィール

まーきみ。

四国の片隅で「気功的な整体施術」しています。
世界で一つだけの、ココロとカラダが喜ぶ究極のリラクゼーション&トータルヘルスを目指して。
家内はフラワーエッセンスとヒーリング、ヒプノセラピーなどやっています。
夫婦で力を合わせて

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