仰げ諸とも緑こき 鶴島城の松のいろ
今も今もと油断なく 己が勤めを盡(つく)してよ
見よ諸共に底(そこい)なく 湛(たた)うる大海(うみ)の源も
落つる雪輪の一片(ひとひら)や 降り来る霧の一雫
小さき物事慎みて 大事を誤る事勿れ
玉の簪(かざ)しや綾の衣 人の道には何かせん
真澄の鏡曇りなき 清き心を言の葉と
起居(おきい)の上に示さずば 世に立つ甲斐や忽(なから)まし
身は手弱女にありとても 君の御恵(みめぐみ)父母の恩
我師の教えかしこみて 遠(とおつ)御祖(みおや)の御言葉に
答え奉(まつ)らむ真心は 大丈夫(ますらたけお)に劣るなよ
宇和島女子尋常高等小学校校歌
校長 兵頭賢一作歌
「南豫案内」小林葭江より引用
現在の城南中学校校歌の歌い出しの一節「緑濃き古城のほとり」はこれを参考にしたのかなと、ふと思った。

丸之内二丁目
専売公社跡
戦時中までここに、鶴島小学校の前身「第二尋常小学校」があったことはよく知られている。

第二小学校の写真

宇和島第弐尋常小学校の印
そもそもその場所は、明治の中頃、女子小学校が出来た事が始まりであった。
時代はそれから幾星霜を経て明治32年となった。町長土居礼の末期である。
宇和島町では教育の振興を期すために初めて高等小学校を単置することになった。場所は丸之内の旧竟成小学校で校舎はこの時新築した。無論男女の共学である。
然るに町会方面から「男女各々進むべき道を異にしている。それを共学制度にするのは教育の能率をあげる所以ではない」と批判の声が上がりだした。明治37年になると男女を分けて授業をすることになり、高等科単科を廃した。
それに代わって併置の方針を樹て広小路の尋常小学校を改めて男子尋常高等小学校となし、丸之内の単置校の跡に、女子尋常高等小学校を新設したのである。
やがて明治も終り大正時代となった。これより先、男子校には高橋彦之丞がそのまま居残ったが明治44年4月の異動で吉田町に去り、後任には北宇和郡三島村出身の赤松和江が来任した。北宇和郡視学の清家吉次郎の力が預かって大をなしたということである。
女子校長には津島郷立尋常高等小学校長の兵頭賢一が転入してきた。2人の性格は人間的にも、また教育方針にもかなりの相違点があったが、何れも教育者とし ての強い情熱と高い見識を持ち、それを実践した処は両者共通のものがあった。而して宇和島教育界に早くも黄金時代を現出するに至ったのである。
赤松校長の下からは後に和霊校長二宮弥助の如き、明倫校長山口久米助の如き有為の人材が輩出し、女子校の如きは当時破格ともいうべき文部省の選奨を受けた。即ち模範校になったわけである。
個人としては2人共に他に先駆けて奉任待遇となり叙位の沙汰を受けた。
「宇和島の明治大正史」より引用
引用終わり

ささき整体施術院
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