旧宇和島市

食肉センターの謎

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来村川(向かって右)と神田川(左)に囲まれた一角に「食肉センター」があった。

2011年には、もう稼働していなかった。いつ辞めたのか、不明。

1990年頃は、たまに豚が鳴いていたのが聞こえた。



明治43年

明治43年頃の地図には、元結掛に「宇和島屠牛場」とある。
現在地はまだ埋め立てられていない。



大正11年大地図da

大正11年の地図も同様


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赤印の所に、河口付近に設置される「水準基標」があった。

その後埋め立てられた様子が分かる。




大正14年宇和島市街図(表)30b

大正14年の地図




S61-10

昭和6年 「屠牛場」が新田町河口付近に明記されている。





昭和12年

昭和12年


昭和10年



昭和29年

昭和29年

今までより、埋め立てられて広がったような?

川渕孵化場






昭和60年a


昭和60年

鶏舎と食肉センター

この一連の地図から、埋め立てが拡大され。そのため食肉センターが移動したのではないかと想像する。



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南校から見た様子 2011年

スクリーンショット (702)
現在は解体されている


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解体工事

2011年10月





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石積みの様子で、埋め立てられた年代が違う事が想像される


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この船溜まりのような窪みの寸法も変わったのかもしれないが、地図からは確定できなかった。

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食肉センター


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水準基標は、この塀の内側にあったことは、関係者の話から明らかである。




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石碑が見える


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解体後は、海辺に移されたようだ


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供養塔


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昭和2年8月建立

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寄付者の名前

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宇和島市来村屠場組合
宇和島缶詰株式会社
中山萬太郎(※紅屋商店 牛肉商 袋町)
浅井新吾(※牛馬(飼育?)来村)
坂本寅吉
眞崎?商会
石口大吉(※畜産業 第一回愛媛県牛匹共進会4等賞 八幡村)
松下●吉
宮﨑定治
兵頭正義
毛?利留吉
中村福松
宇和伝缶詰製造所
松浦藤吉
河野熊吉

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請負 藤原秀一郎
石工 畔晋吉

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企画者

宇和島缶詰株式會社 林曻
愛媛縣衛生技師   大野時馬
宇和島屠場書記兼管守 岸壽明







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大正ー昭和10年代の宇和島市地図と変遷

大正11年の地図


大正11年地図カラー

大正11年地図カラーa大正11年地図カラーc

大正11年地図カラーb大正11年地図カラーd

サムネイル



泉屋新田
朝日町という名称は無い。泉屋新田と言った。

12年くらいから朝日町と称した。1-6丁目があった。

雪輪サイダー
大正綿布
火力発電所
製氷所
などの会社名が見える。
朝日町本通は直通道路となっている。

この年、皇太子殿下がこの道を通った。
樺崎のおあがり場から船大工町の新大橋まで

まだ「朝日運河」はありません。

大正11-13年頃、内港を浚渫してその土砂で埋め立てて朝日町の形が出来た




和霊神社周辺
宇和島駅の次の駅は「下村駅」近くに三島神社があった
上に「第二青年会館」という名称が見える

丸今綿布は今の城北中学校の所

この時も入らずの森を斬る計画があったけど業者が祟りを恐れて切る人がいなかったらしい。

昭和60年代、城北中学校新築のおり、市民から陳情のあった入らずの森の保存は市議会が否決したので、何時切られてもおかしくない状態である。
和霊神社南側に通称「桜筋」と花街があった。東雲なども最初はここで開業した。それより鶴島町東通りに通じる橋が出来た。榎橋と言う名前だったが通称は「芸者橋」と呼ばれた。
北新橋の一つ上流の名前のついてない橋である。

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四十番札所 龍光院、とあるが「四十番札所観自在寺奥の院」が正しいと思われる。

「日本酒類会社」とあるのは、今のJAあたりかな?

須賀川は付け変る前、今の市役所辺りに河口があった
大正11年大地図a大正11年大地図c
大正11年大地図b大正11年大地図d

サムネイル



大正十四年の宇和島市の地図

大正14年宇和島市街図(表)30


日振新田、小笠原新田、朝日町に「養魚場」が見える。

何を飼っていたのか?

この時期、食用ガエル(ウシガエル)を養殖してたという話を聞いた。
今でも帰化したウシガエルやアメリカザリガニを見ることが出来る。

朝日運河はまだできて無いが、この頃出来た。前方の海を埋め立てしている。


大正14年宇和島市街図(表hasi)


大正14年宇和島市街図(ウラ)30
大正十四年地図裏面広告
石丸製綿所 新京にも工場があったのか?


大正14年宇和島市街図(表)30a大正14年宇和島市街図(表)30c
大正14年宇和島市街図(表)30b大正14年宇和島市街図(表)30d

サムネイル





昭和三年の地図

昭和3年地図a


朝日運河が表示されている

埋め立て地、予定地も

内港の浚渫予定も

県道も太字で表されている。現在の国道56とは異なる



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現在の国道と当時の県道

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昭和29年の新聞記事

県道がいつ、どのような経路で現在の国道56号に変って行ったのか、細かいことは不明であるが、当時の新聞に「船大工町から追手に至る第二種国道を、同じく船大工町から栄町を経て丸之内和霊神社に変更するよう中平市長が運動した、とあり変更の様子を知ることが出来る。

昭和3年地図aa昭和3年地図ac
昭和3年地図ab昭和3年地図ad

サムネイル






昭和6年の宇和島市の地図


00-昭和6年 (01)







00-昭和6年 (07)
その裏面


00-昭和6年 (08)


石崎本店
本町3

堀部本店
堅新町(たつしんまち)

猿のいる店
豊岡洋服店
(鶴島町中通)

宇和島運輸
堅新町



00-昭和6年 (10)

鹽屋本店
舟大工町

河野本店
本町

御旅館 蔦屋
丸之内


サムネイル(詳細拡大)

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昭和8年の宇和島地図
昭和8年地図(小・表)

昭和8年地図(小・表)a昭和8年地図(小・表)c
昭和8年地図(小・表)b昭和8年地図(小・表)d
サムネイル


裏面
昭和8年地図(小・ウラ)


昭和8年地図(小・ウラ)a昭和8年地図(小・ウラ)c

昭和8年地図(小・ウラ)b
昭和8年地図(小・ウラ)d














昭和8年2
昭和8年地図


昭和8年地図a昭和8年地図c
昭和8年地図b昭和8年地図d
サムネイル

サムネイル2
00-昭和8年 (03)00-昭和8年 (02)


00-昭和8年 (05)00-昭和8年 (04)



昭和10年の地図

昭和10年


昭和10年a昭和10年c
昭和10年b昭和10年d









付け替えた後の、須賀川の埋め立て途中の様子が図面に明記されている。
そこに縦断する2本の破線は、汽車道(港湾鉄道)の予定地と思われる。

その沿岸の築地の花街も描かれている。

「河身北陽を貫く」須賀川付け替えのため、河床に沈んだ花街の一部は、ここ築地に新天地を求めて移転を計画したのは昭和4年の事であった。

当時、九島橋と呼ばれた「板島橋」も明倫小学校や宇和島高等女学校の移転後の位置も描かれている



昭和12年の地図(表)

昭和12年地図(表)




日振新田の近江帆布

右上の別紙「戎山」「酒井綿布」など、他の地図にない場所や会社が書かれているのは珍しい。

主要バス路線が描かれている。
昭和12年地図(ウラ)

昭和12年地図(ウラ)

宇和島の銘菓が記されていて、菓子製造が繁華だったことをうかがわせる。

丸之内和霊神社の由緒も興味深い

第2宇和島自動車など、現在の人は知らない宇和島自動車の由来なども伺わせる時刻表も貴重な資料である。

昭和12年地図(表)a昭和12年地図(表)c

昭和12年地図(表)b昭和12年地図(表)d

サムネイル





追加

明治43年

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詳細

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戦後の地図はこちら


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世直り様(本川内)


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本川内

薬師谷に至る道




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ここを左折


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この奥に、「世直り様」の祠があるらしい。


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見えてきた


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「番城校区の史跡と伝説」番城公民館によると


「本川内部落にはいって行くと、左側に最初に見える谷がある。
その谷を少し入った右の石垣の上に小さい祠が建っている。
これが世直り様である。」






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祠と呼ぶには大きい


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石垣だけは古そうな


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この祠の中に花崗岩の塚石が祀ってある。これは河内(薬師谷、並松、川内、本川内)の庄屋三好四郎右衛門ら七人を祭った墓であると伝えられている。

初代藩主伊達秀宗は明暦3年(1657)7月27日に隠居して三男宗利があとを継いだ。
同年8月16日に五男宗純には吉田三万石を分知して与えた。

これによって宇和島藩は、七万石となり、財政的にも困難になった。そこで時の郡奉行八十島治右衛門を検地頭取に任じ、新開墾地の脱税を挙げると共に、検地を行って財政の回復を図ることとした。

八十島は漢文10年(1670)に、検地竿
※三尺(ママ)三寸(約1,9メートル)を、六尺(約1,8メートル)に改めて、検地を行おうとした。
(※作者註・六尺の誤りと思われる)
藩内の農民は増税を予想して反対した。
 八十島は先ず、河内から検地を実施しようとしたが※
川内の庄屋三好四郎右衛門は、領内20か村の惣代となって農民の為一身を捨ててその不当に抗議した。
(作者註、河内)
八十島治右衛門は、三好ら七人(本人、妻、長男、次男、女二人、下男一人)を斬り検地を実施した。
その後八十島は検地強行の責任を取って引退、家財を売って、その金で大蔵経を買い求めてこれを金剛山正眼寺(大隆寺)に奉納したという。八十島は元禄2年(1689)2月7日に没し、金剛山大隆寺に墓がある。




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香炉がある

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三の文字


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この先、本川内集会所がある。



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並松の桜木様

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村田蔵六さんにもらった「番城校区の史跡と伝説」(番城公民館)にあった並松の桜木様を探しに行った。

以下引用
「並松街道が国道と出会う(赤土鼻)少し手前の、左手にある小高い丘にこの桜木様という小祠がある。


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並松街道


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並松公民館


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この道を行くと、国道を横切って、長堀の三島神社近くまで達する。


道なりに国道方面に歩くと


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長年の勘で、あやしい入り口発見


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つづら折れに山頂へ道がある

まず間違いないと確信する


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左へ


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そして右へ


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見晴らしがよくなった


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しんばしやコスモスも


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さらに行けば


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祠発見


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手水鉢


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旧宇和島市マークに見えるが、これは水道局
そして頭が丸い石柱と言えば


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BM

ベンチマーク、即ち水準点

国土地理院ではなく、宇和島市独自の水準点か?

初めて見た。

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昭和35年7月?

わしの生まれた年だ

しかし、もう使わないものなのか?伐採した木がもたれ掛っている。


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小さいけど立派な祠

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左方に青石っぽい石碑あり

この祠は、戦前、来村尋常小学校の児童が建てたらしい




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選佛寺住職頼竜と言う人の由来
漢文で読めない。

それによると、桜木様は宇和島藩士柳澤隆治と言う人に仕えた家僕永六五大夫を祭ったものだという
宇和島藩では毎年正月に御野始めを行うのが常であった。貞享4年(1687)正月3日、の御野始の時、五大夫は主人の射落とした雉を、他家の家僕に取られてしまった。主人の隆治から「武士の下男として勇気のない事だ」ときつく叱られた五大夫は、その失敗の申し訳のため、川内の丘に登り、桜の木の下で自刃した。隆治の孫の隆良の代になって、身分の低いものでありながら恥を知る五大夫の立派な志をたたえて、この碑を建てたと言う事である。

宇和島の自然と文化










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二荒伯爵の碑

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櫻木様の思ひ出

明治二十六年の頃、八歳であった私は父に連れられてこの小さな丘に上がった、そして私は父から櫻木様の由来について審(つまびらか)に聞いた。
それは五大夫という家来が、狩の伴をして主人の撃ち落した雉を叢分けて探していたところ、他の侍の家来もその主人の撃ち落した雉を探してゐた図らずもこの二人の家来は撃ち落されていた一羽の雉を互いに主人のものと思い込み、二人で話し合ひをした結果、五大夫は雉の躰の方を、他の家来はその首の方をを持って帰って主人の許に帰って行った。
五大夫は事の次第を主人に告げ、雉の躰を持って帰ったことを得意になって話した。
主人は満足すると思ひの他、甚だ不興顔に武士の家来が獲物の首級を敵に取られるとは何事であるかと強く詰った。
主人思ひの五大夫は主人の名誉を傷つけたことを深く自分を責めて獲物を争ったこの小丘に上がって自刃したその時持ってゐた櫻の枝を突き立てたのが根付いてこの桜の木になったのである。

先年、来村小学校の児童によって小祠が建てられたのを知り昭和十四年四月、子女を伴って親しく其の地を訪ねた四十六年の昔に仰ぎ見た櫻の木は今は枯れて捨てられたのか見られなかったが、私の思ひ出は昨日のことのやうに眼底に浮かぶのであった。
今年〇〇このなつかしい昔語りをその頃の私と同じ年齢の児童に伝えたい気がしてこの碑を建てることにした。

昭和十五年三月 東京 二荒芳徳撰



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最早読めない


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境内はきれいに整備されている


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裏山



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もう一つ道があるようだ


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さて帰ろう


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あの裏の道は、ここに続くのか


終り


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宇和島ショップガイド加盟店 昭和26年

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宇和島ショップガイド加盟店

昭和26年

以下に現存する店 

現存しないが行ったことのある店 


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間違いがあれば、ご指摘ください。


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昭和28、29年の宇和島市の地図(改訂版)


昭和28年の「大宇和島立体市街図」

第7回国民体育大会を記念して作ったらしい

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裏面に店舗や施設の名前

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拡大します

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日本商工業別詳細図 昭和29年


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拡大します

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裏面




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拡大します


戦前の地図はこちら

大正ー昭和10年代の宇和島市地図と変遷











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在りし日の樋口虎若邸 3☆

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外に出てみる



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正面



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桟がユニーク




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レリーフか


典型的な大正期の和洋折衷(と、おもう)



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臼が


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土壁だ



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社保




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この銀杏の木も伐採




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このような建物は最早宇和島には存在しない



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しっかり目に焼き付けておこう




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ぺーたさんとぞうろくさん



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出窓も珍しい


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さようなら樋口虎若邸



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数日後、解体

マンションになるらしい


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在りし日の樋口虎若邸 2

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こんなガラスも珍しいのだろうな


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これは新しい

しかし天井の材が珍しいかも


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金閣舎利殿御守護


金閣舎利殿とは
言わずと知れた金閣寺



00-DSCN0109

階段を上がる

残念なことに手すりはすでに切り離されていた



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飾りが一部残っていた


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二階の天井


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次の間?



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違い棚



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何気ないデザインが、見事な



つづく


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在りし日の樋口虎若邸 1

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6月3日

ぞうろくさんとぺーたさんと

解体間近の樋口虎若邸へ

大正後期の建物と言う

aスクリーンショット (3013)


樋口虎若は、吉田町出身の耳鼻咽喉科の医師であり、宇和島市長も務めた(昭和13年)

各小学校の衛生顧問(校医)も務めた


樋口 虎若氏とは?
 第7代宇和島市長
昭和13年7月30日 就任  
同 14年5月17日 辞任

略歴 
明治5年11月10日 北宇和郡吉田町東小路に生まれる
同 27年11月   第三高等学校卒業医師開業免状を受ける
同 33年2月    宇和島市広小路にて医師開業
同 37年2月    陸軍軍医大尉
大正3年1月     宇和島町会議員当選
同 4年9月     北宇和郡会議員当選
同10年12月    宇和島市議会議員当選

任期中の9月20日 宇和島市にとっては大きな存在であった、元宇和島市長山村豊次郎氏が逝去。同月25日、市葬を執り行った。
10月に市議会議員選挙。これが混乱を起こし、翌年5月17日樋口市長は議会に辞表を提出、退任が承認された。自治体行政における政党間の対立、議会内部での対立が原因で市政執行を困難にしたものと思われる。

故山口氏「宇和島の追想」より


31DSCN1286
昭和31年新聞記事


宇和島市立明倫尋常小学校昭和9年3月卒業記念(職員)
宇和島市立明倫小学校職員(昭和9年3月卒業記念)

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向かって左

樋口衛生顧問

右は赤松賢吉校長


明倫尋常小学校起工式(清家館長談)
明倫尋常小学校の起工式と思われる写真


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ここにも映っている

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入らせていただきます



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樋口虎若の表札



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重厚な門扉



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松の木が多数



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この礎石の数々



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洋風な扉


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ガラス窓も古い感じ



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トントンと音がする



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後世に残す値打ちのある材を採取中


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飾りやガラスなどの美しさ



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足踏みミシン


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ブラザー


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テーブルは新しそう


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よくわからない


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だるまスイッチ



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この天井も手が込んでいる



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このソケットも古そう


つづく


sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制



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作楽第3号(作樂会・宇和島高等女学校)昭和17年 

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作樂 第参号

愛媛県立宇和島高等女学校作樂會


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目次


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各支部

紙質から、画像が不鮮明


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会長は校長先生のようだ

秦四郎





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作楽会 会則






sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制









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訪問ありがとう
プロフィール

まーきみ。

四国の片隅で「気功的な整体施術」しています。
世界で一つだけの、ココロとカラダが喜ぶ究極のリラクゼーション&トータルヘルスを目指して。
家内はフラワーエッセンスとヒーリング、ヒプノセラピーなどやっています。
夫婦で力を合わせて

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