
鬼北町小松
旧三島村

最近図書館で借りた、愛媛新聞 夕刊うわじまの「皮てんぷら」
地元の名士がつづるエッセイ、平成元年発行
その中に鬼北町の方の作品に「自動車事故第一号」と言うエッセイを拝読すると
大正15年11月5日に、小松の通称「保木の坂」と言う難所で、陸軍第11師団の機動演習が行われ、折からの大雨も災いして、貨物自動車が広見川の岩盤に14メートル落下、軍曹1名、伍長勤務上等兵1名、東宇和郡出身御用商人1名が死亡、5名の重軽傷者を出したとあった。
以下引用
3日前から降り始めた雨は風も出て土砂降りとなり、広見川もかなり増水したようである。当時としては珍しい事で、陸軍第十一師団の機動演習が行われることとになり、松山歩兵第二十二連隊兵員千二百名の部隊が広見町(旧三島村)を通過するとの報を受けたので、地元では村役場を中心として、在郷軍人会、消防組、青年団、婦人会、及びその他の団体が協力して通貨部隊を歓迎しようとして待機していたのである。
ところが午前十時ごろ突然、小松の通称「保木の坂」で軍の貨物自動車が転落したとの報告が三島村役場(現・地蔵味噌)へ入ったから大変である。直ちに伝令が各団体に飛び救援活動が始まった。現場は改良された現国道とは違い急な下り坂で、14mの高さから車は一回転して岩盤に叩きつけられて大破、同乗の兵員はもとより積荷は散乱、車体は井関の水面に没していた。この事故で、車で先行中の軍曹1名、伍長勤務上等兵1名、東宇和郡出身御用商人1名が下敷きとなり即死、5名が重軽傷者を負い啓発名は死傷した。事故後は軍の指揮で遺体や重軽傷者は密かに松山に送還され、車両などは在郷軍人会と消防組の手によって引き上げられ多様であるが、これをこの道路の自動車事故第一号と認識している。
引用終り
そこで戎山協議録の記録の中に、それと思われる事故が記載してあった。

大正15年11月
「松山連隊秋季機動演習の為宇和島へ出張の際三島村広見川へ自動車転落の際死亡重傷せられし辻本軍曹他3名御見舞金として一戸に付6銭6厘20戸分1円32銭集めたり」(カナは平仮名表記に修正)
おそらく、宇和島市、北宇和郡など幅広い自治会単位で、見舞金としての寄付が募られた事と思うが、「皮てんぷら」によると、軍の機密であったのか、当時の演習に参加した地元出身者には詳しいことは知らされず、旧村史にも何の記録も残されていないという。
詳細な演習の記録は、高畠亀太郎日記に記されている。
しかし、事故の記載はない。知らなかったとは思われず、或いは軍に機密として記録に残すことを禁じられたのかもしれない。
以下引用

ささき整体施術院
愛媛県宇和島市坂下津乙18-5
電話番号 0895-23-7177
施術料金 1時間 3,500円
完全予約制
おそらく、宇和島市、北宇和郡など幅広い自治会単位で、見舞金としての寄付が募られた事と思うが、「皮てんぷら」によると、軍の機密であったのか、当時の演習に参加した地元出身者には詳しいことは知らされず、旧村史にも何の記録も残されていないという。
詳細な演習の記録は、高畠亀太郎日記に記されている。
しかし、事故の記載はない。知らなかったとは思われず、或いは軍に機密として記録に残すことを禁じられたのかもしれない。
以下引用
大正15年11月4日(木)雨
5日(金)
5日(金)
(前略)
松山二十二連隊の歩兵に、善通寺の騎、工兵等の特科隊を加えたる約一個連隊以上の軍隊、演習の為行軍あり。川筋、三間方面を経て正午当市に到着。吾家のの前を隊伍を整えて続々通過し、午後三時泉屋新田市有埋立地の広場にて参列式を挙げらるるを以て、行きて観たり。軍隊は皆々市中民家に宿泊し、吾伊吹町へも三百余名割り当てられ、吾家は予ねて第一大隊本部、大隊長宿舎と定められ居たれば、夕刻夫々来着あり。二階一二畳の床に大隊長、同副官、主計の三将校を、次の八畳に下士官二名、兵二名を入れ、夜、饗応す。十時頃迄談じて、孰(いず)れも就寝せられたり。
好晴
十六日(土)
業用を為し、正午より伊達家主催の宿営将校招待会に天赦園へ行く。小泉十一師団長、継二十二連隊長等、百数十名の軍人に、市当局及び、市会議員加わりて交歓し、園遊会の催しもありて、午後三時帰宅す。今夜もわが家へ宿舎の軍人を待遇す。晴
十七日(日)
朝五時、わが家に宿泊の将校皆出発す。
各隊隊伍を整えて、孰れも卯之町方面に行進したり。
(後略)
晴
高畠亀太郎この年、県会議員に再選、再婚、製糸会社経営

ささき整体施術院
愛媛県宇和島市坂下津乙18-5
電話番号 0895-23-7177
施術料金 1時間 3,500円
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