大正11年の地図





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泉屋新田
朝日町という名称は無い。泉屋新田と言った。
12年くらいから朝日町と称した。1-6丁目があった。
雪輪サイダー
大正綿布
火力発電所
製氷所
などの会社名が見える。
朝日町本通は直通道路となっている。
この年、皇太子殿下がこの道を通った。
樺崎のおあがり場から船大工町の新大橋まで
まだ「朝日運河」はありません。
大正11-13年頃、内港を浚渫してその土砂で埋め立てて朝日町の形が出来た
和霊神社周辺
宇和島駅の次の駅は「下村駅」近くに三島神社があった
上に「第二青年会館」という名称が見える
丸今綿布は今の城北中学校の所
この時も入らずの森を斬る計画があったけど業者が祟りを恐れて切る人がいなかったらしい。
昭和60年代、城北中学校新築のおり、市民から陳情のあった入らずの森の保存は市議会が否決したので、何時切られてもおかしくない状態である。
和霊神社南側に通称「桜筋」と花街があった。東雲なども最初はここで開業した。それより鶴島町東通りに通じる橋が出来た。榎橋と言う名前だったが通称は「芸者橋」と呼ばれた。
北新橋の一つ上流の名前のついてない橋である。

四十番札所 龍光院、とあるが「四十番札所観自在寺奥の院」が正しいと思われる。
「日本酒類会社」とあるのは、今のJAあたりかな?
須賀川は付け変る前、今の市役所辺りに河口があった




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大正十四年の宇和島市の地図

日振新田、小笠原新田、朝日町に「養魚場」が見える。
何を飼っていたのか?
この時期、食用ガエル(ウシガエル)を養殖してたという話を聞いた。
今でも帰化したウシガエルやアメリカザリガニを見ることが出来る。
朝日運河はまだできて無いが、この頃出来た。前方の海を埋め立てしている。


大正十四年地図裏面広告
石丸製綿所 新京にも工場があったのか?




サムネイル
昭和三年の地図

朝日運河が表示されている
埋め立て地、予定地も
内港の浚渫予定も
県道も太字で表されている。現在の国道56とは異なる

現在の国道と当時の県道

昭和29年の新聞記事
県道がいつ、どのような経路で現在の国道56号に変って行ったのか、細かいことは不明であるが、当時の新聞に「船大工町から追手に至る第二種国道を、同じく船大工町から栄町を経て丸之内和霊神社に変更するよう中平市長が運動した、とあり変更の様子を知ることが出来る。




サムネイル





サムネイル





昭和8年2





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昭和10年の地図





付け替えた後の、須賀川の埋め立て途中の様子が図面に明記されている。
そこに縦断する2本の破線は、汽車道(港湾鉄道)の予定地と思われる。
その沿岸の築地の花街も描かれている。
「河身北陽を貫く」須賀川付け替えのため、河床に沈んだ花街の一部は、ここ築地に新天地を求めて移転を計画したのは昭和4年の事であった。
当時、九島橋と呼ばれた「板島橋」も明倫小学校や宇和島高等女学校の移転後の位置も描かれている
昭和12年の地図(表)

日振新田の近江帆布
右上の別紙「戎山」「酒井綿布」など、他の地図にない場所や会社が書かれているのは珍しい。
主要バス路線が描かれている。

昭和12年地図(ウラ)
宇和島の銘菓が記されていて、菓子製造が繁華だったことをうかがわせる。
丸之内和霊神社の由緒も興味深い
第2宇和島自動車など、現在の人は知らない宇和島自動車の由来なども伺わせる時刻表も貴重な資料である。




サムネイル
追加

ささき整体施術院
愛媛県宇和島市坂下津乙18-5
電話番号 0895-23-7177
施術料金 1時間 3,500円
完全予約制





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泉屋新田
朝日町という名称は無い。泉屋新田と言った。
12年くらいから朝日町と称した。1-6丁目があった。
雪輪サイダー
大正綿布
火力発電所
製氷所
などの会社名が見える。
朝日町本通は直通道路となっている。
この年、皇太子殿下がこの道を通った。
樺崎のおあがり場から船大工町の新大橋まで
まだ「朝日運河」はありません。
大正11-13年頃、内港を浚渫してその土砂で埋め立てて朝日町の形が出来た
和霊神社周辺
宇和島駅の次の駅は「下村駅」近くに三島神社があった
上に「第二青年会館」という名称が見える
丸今綿布は今の城北中学校の所
この時も入らずの森を斬る計画があったけど業者が祟りを恐れて切る人がいなかったらしい。
昭和60年代、城北中学校新築のおり、市民から陳情のあった入らずの森の保存は市議会が否決したので、何時切られてもおかしくない状態である。
和霊神社南側に通称「桜筋」と花街があった。東雲なども最初はここで開業した。それより鶴島町東通りに通じる橋が出来た。榎橋と言う名前だったが通称は「芸者橋」と呼ばれた。
北新橋の一つ上流の名前のついてない橋である。

四十番札所 龍光院、とあるが「四十番札所観自在寺奥の院」が正しいと思われる。
「日本酒類会社」とあるのは、今のJAあたりかな?
須賀川は付け変る前、今の市役所辺りに河口があった




サムネイル
大正十四年の宇和島市の地図

日振新田、小笠原新田、朝日町に「養魚場」が見える。
何を飼っていたのか?
この時期、食用ガエル(ウシガエル)を養殖してたという話を聞いた。
今でも帰化したウシガエルやアメリカザリガニを見ることが出来る。
朝日運河はまだできて無いが、この頃出来た。前方の海を埋め立てしている。


大正十四年地図裏面広告
石丸製綿所 新京にも工場があったのか?




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昭和三年の地図

朝日運河が表示されている
埋め立て地、予定地も
内港の浚渫予定も
県道も太字で表されている。現在の国道56とは異なる

現在の国道と当時の県道

昭和29年の新聞記事
県道がいつ、どのような経路で現在の国道56号に変って行ったのか、細かいことは不明であるが、当時の新聞に「船大工町から追手に至る第二種国道を、同じく船大工町から栄町を経て丸之内和霊神社に変更するよう中平市長が運動した、とあり変更の様子を知ることが出来る。




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昭和6年の宇和島市の地図
石崎本店
本町3
堀部本店
堅新町(たつしんまち)
猿のいる店
豊岡洋服店
(鶴島町中通)
宇和島運輸
堅新町
鹽屋本店
舟大工町
河野本店
本町
御旅館 蔦屋
丸之内
サムネイル(詳細拡大)
昭和8年の宇和島地図





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裏面





昭和8年2





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サムネイル2
昭和10年の地図





付け替えた後の、須賀川の埋め立て途中の様子が図面に明記されている。
そこに縦断する2本の破線は、汽車道(港湾鉄道)の予定地と思われる。
その沿岸の築地の花街も描かれている。
「河身北陽を貫く」須賀川付け替えのため、河床に沈んだ花街の一部は、ここ築地に新天地を求めて移転を計画したのは昭和4年の事であった。
当時、九島橋と呼ばれた「板島橋」も明倫小学校や宇和島高等女学校の移転後の位置も描かれている
昭和12年の地図(表)

日振新田の近江帆布
右上の別紙「戎山」「酒井綿布」など、他の地図にない場所や会社が書かれているのは珍しい。
主要バス路線が描かれている。

昭和12年地図(ウラ)
宇和島の銘菓が記されていて、菓子製造が繁華だったことをうかがわせる。
丸之内和霊神社の由緒も興味深い
第2宇和島自動車など、現在の人は知らない宇和島自動車の由来なども伺わせる時刻表も貴重な資料である。




サムネイル
追加
明治43年
詳細

ささき整体施術院
愛媛県宇和島市坂下津乙18-5
電話番号 0895-23-7177
施術料金 1時間 3,500円
完全予約制