村田蔵六さんにもらった「番城校区の史跡と伝説」(番城公民館)にあった並松の桜木様を探しに行った。
以下引用
「並松街道が国道と出会う(赤土鼻)少し手前の、左手にある小高い丘にこの桜木様という小祠がある。
並松街道
並松公民館
道なりに国道方面に歩くと
まず間違いないと確信する
左へ
そして右へ
しんばしやコスモスも
BM
ベンチマーク、即ち水準点
国土地理院ではなく、宇和島市独自の水準点か?
初めて見た。
わしの生まれた年だ
しかし、もう使わないものなのか?伐採した木がもたれ掛っている。

小さいけど立派な祠
この祠は、戦前、来村尋常小学校の児童が建てたらしい

選佛寺住職頼竜と言う人の由来
漢文で読めない。
それによると、桜木様は宇和島藩士柳澤隆治と言う人に仕えた家僕永六五大夫を祭ったものだという
宇和島藩では毎年正月に御野始めを行うのが常であった。貞享4年(1687)正月3日、の御野始の時、五大夫は主人の射落とした雉を、他家の家僕に取られてしまった。主人の隆治から「武士の下男として勇気のない事だ」ときつく叱られた五大夫は、その失敗の申し訳のため、川内の丘に登り、桜の木の下で自刃した。隆治の孫の隆良の代になって、身分の低いものでありながら恥を知る五大夫の立派な志をたたえて、この碑を建てたと言う事である。
宇和島の自然と文化

二荒伯爵の碑

櫻木様の思ひ出
明治二十六年の頃、八歳であった私は父に連れられてこの小さな丘に上がった、そして私は父から櫻木様の由来について審(つまびらか)に聞いた。
それは五大夫という家来が、狩の伴をして主人の撃ち落した雉を叢分けて探していたところ、他の侍の家来もその主人の撃ち落した雉を探してゐた図らずもこの二人の家来は撃ち落されていた一羽の雉を互いに主人のものと思い込み、二人で話し合ひをした結果、五大夫は雉の躰の方を、他の家来はその首の方をを持って帰って主人の許に帰って行った。
五大夫は事の次第を主人に告げ、雉の躰を持って帰ったことを得意になって話した。
主人は満足すると思ひの他、甚だ不興顔に武士の家来が獲物の首級を敵に取られるとは何事であるかと強く詰った。
主人思ひの五大夫は主人の名誉を傷つけたことを深く自分を責めて獲物を争ったこの小丘に上がって自刃したその時持ってゐた櫻の枝を突き立てたのが根付いてこの桜の木になったのである。
先年、来村小学校の児童によって小祠が建てられたのを知り昭和十四年四月、子女を伴って親しく其の地を訪ねた四十六年の昔に仰ぎ見た櫻の木は今は枯れて捨てられたのか見られなかったが、私の思ひ出は昨日のことのやうに眼底に浮かぶのであった。
今年〇〇このなつかしい昔語りをその頃の私と同じ年齢の児童に伝えたい気がしてこの碑を建てることにした。
昭和十五年三月 東京 二荒芳徳撰

最早読めない

境内はきれいに整備されている


裏山



もう一つ道があるようだ




さて帰ろう

あの裏の道は、ここに続くのか
終り

ささき整体施術院
愛媛県宇和島市坂下津乙18-5
電話番号 0895-23-7177
施術料金 1時間 3,500円
完全予約制
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