昭和25年昭和天皇宇和島行啓

ある方より譲り受けた、古い写真の中から見つかった一枚

写真は、昭和25年の昭和天皇行幸に於ける、宇和島奉迎所の風景と思われる。

最初、判らなかったが

①後方の「丸劇」と「奉迎」の文字と

②当時、遺族として最前列に席を占めたおふくろ一家

③そして、近所の古老(故人)の「青年団の勤労奉仕で、東邦銀行(現・信用金庫新橋支店駐車場)前の内港埋め立て地の整備に参加した」

と言う証言からの想像である。

左方に「・・和」と名前の入った建物は「丸和百貨店」と思われる
現在、愛媛銀行がある。


さらに、

ある人からもらった、廃品の中から見つけた書籍




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前方向って日の丸の左に「四国銀行」の看板あり


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翌26年、筋交橋に代わり、新橋架設


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昭和29年ごろの地図

赤丸辺りが奉迎台と思われる。


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現在の、この辺り


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昭和25年愛媛縣行幸記念誌

この中には、昭和天皇が愛媛県に来られた時の日程や道筋が、分単位で記されている。


それによれば、昭和天皇が宇和島奉迎所にお着きになったのは、3月20日16時30分であった。

この日、松山市の御宿所「鮒屋旅館」を午前9時にお立ちになった昭和天皇は井関農機、東洋レーヨン御視察、郡中奉迎所で奉迎を受けられた後、南郡中駅より予讃本線にご乗車、大洲駅で奉迎、八幡浜駅に降りられ、酒六株式会社、八幡浜漁港の御視察後、八幡浜駅、卯之町駅で奉迎、そして立間駅(立間村)に降りられて吉田小学校(現、吉田支所)で奉迎を受けられた後、お車で宇和島に向かわれた。


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吉田町

そして、前述の宇和島市の奉迎所にお着きになる前に、宇和島市で唯一御視察になられたのが、宇和島民生館であった。16:05~16:20



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宇和島民生館は、昭和21年「宇和島市民共済会」が発足させた生活困窮者のための宿泊施設であり、授産所も併設された。

前述の「宇和島市民共済会」は昭和2年、宇和島市の方面委員(現在の民生委員に当たる)中平常太郎らが山村豊次郎市長らと諮り発足させた。7年に財団法人、27年には社会福祉法人として改組され現在に至る。

生活困窮者の救済は、当初篤志家や一般市民からの寄付を集め、これを支給していたが常々その現金支給のみの弊害を感じていた方面委員会長、中平常太郎らは授産事業を通じて、授産場を創設して失業者救済と窮貧者の生活安定を図る必要性を痛感していた。そして思い付いたのが団扇製造であった。

その他下駄、宇和島人形などもあったという

うわじま人形と中平常太郎(木屋旅館)



団扇製造は、戦前の多い年で年間生産量200万本を越え、愛媛県一の生産を誇った。、遠く台湾まで売り出されたと言う。


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某新聞の記事昭和31年

年間生産110万本とある。

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別の新聞記事 29年

生産量10万本は誤りか?

昭和天皇が、民生館を御視察になられたのは、やはり中平らの尽力を評価しての事であったのかなと思う。

宇和島民生館


吉田町をお発ちになった天皇陛下には、隣村高光村の至る所で村民の奉迎にお応えになり、さらに同村申生田から北宇和島駅前にかけて整列した成妙、三間、二名、好藤、松丸、泉、吉野生、三島、近永、日吉の各町村の学童並びに町村民八千名の歓呼奉迎する中をご機嫌うるわしく御通過、午後三時五十四分北宇和島駅前をお通りになり、これより宇和島市内の学童、幼稚園児および一般市民の熱誠あふれる奉迎に応えられつつ、四時過ぎ御視察箇所である宇和島民生館へお着きになった。

民生館では関係者のお出迎えを受けられたのち、玄関続きの一室で宇和島市長国松福祿氏から同市の復興状況をおききになり、ついで館長中平常太郎氏から事業概要の奏上を受けられたのち、中平館長の御先導で館内を御視察になり、居住者百十余名につき、ご通路に当たる一室一室の遺家族、引揚者、戦災者に対し、つぎのような懇ろなお言葉を賜った。

戦災者、吉川リサさんに
「元気を出して頑張ってくださいね」

同室の戦災者遺族土居ウメさんの子供静子、真桯、勝子、佐智子の四人に対して
「立派な人になってくださいね」

遺族藤木しげるさんに
「それはお気の毒でした。苦しいでしょうが更生に努めてくださいね。」

引揚者太田クメさんに
「大変だったでしょう。小さな子供は可愛がってあげてくださいね。」

幸造、俊子、和子、真一の四人に
「しっかり勉強して立派な人になってちょうだいね」

これに対して太田クメさんは「有難うございます」と答えてひれ伏した。

また大連から単身引揚げた老人、三好キヨさんには
「良く帰って来られましたね。御難儀だったでしょう」
とお慰めになられた。

ついで作業場にお入りにならり、展示品(うちわ、下駄)の前までお進みになられた。この時作業場で働いていたのは24,5人であったが、陛下はその状況をご覧になって
「みんなやっているね。しっかりやってくださいね」
とおっしゃった。そして中平館長から、「うちわは年産150万本で600万円の実績を挙げています。下駄の製造も一年に300万円の売り上げがあります。」とご説明申し上げると、陛下には
「あぁそう。それはいいね。あぁそう」と仰せられた。

作業場で働いている人のうち気の毒な二人、兄三人を戦死させた川本節子さん(一八)と夫を戦争に失い子供二人を抱えた河野タツヱさんを館長からご紹介申し上げると陛下には川本さんに
「大変だったでしょうね。しっかりやってくださいね」とお慰めになり、川本さんは「有難うございます」とお礼を申し上げた。次に河野さんには
「お気の毒ですね。どうかしっかりやってくださいね」
とのお言葉があり、河野さんも「有難うございます」とお礼を申し上げた。

ついで陛下には社会事業関係者のお待ち申し上げている階上へおいでになり、中平氏のご紹介で一同に
「皆さん社会事業のため頑張ってくださいね」
とご激励のお言葉を賜り、一同感激した。

つづいて展示品(アルコール、密柑酒、玩具八ッ鹿、同牛鬼、煮干しいわし、戸雁焼、真綿編物」など)をご覧になって階下へお降りになられ、再び作業場をお通りになって同所の万歳にお応えになり、再び階上へ上がられてご通路以外の居住者のお待ち申し上げる一室にお進みになり、中平館長から引揚者久留島亀子、中川コトの両人の模様をご説明申し上げたのに対し
「よく帰られましたね。苦しかったでしょう」
とお言葉をかけられ、さらに他の人々にも
「苦しいでしょうが、しっかりやってくださいね」
と温かいお言葉を賜った。一同は感激してただ涙するばかりであった。
以上で全部の御視察を終えらせられ、湧き上がる万歳の声にお会釈あそばされ階下へお進みになり、4時20分、玄関でご乗車、歓声渦巻く巷を丸の内劇場前の市奉迎場へ向かわせられた。
「昭和25年 愛媛県行幸記念誌」より


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ある日、鬼北町の旧家から、大量の団扇がでて来た。


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電話番号に市内局番がない事から、昭和41年以前のものと思われる。

これも前述の宇和島の授産所の制作かな?とふと思ったが真偽の程は未だ不明である。






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