昭和16年生まれの顧客さんが、「わしらは家が商売しよったけん、幼稚園にやらされて・・」と言う。
「わしらが行きよった宇和島幼稚園は法圓寺にあって・・保手の友達の家から船で今の明屋と明倫小学校のところまで行って歩いて行った」

法圓寺と言えば今、立正保育園があるところだ。我々の通ってた頃は鶴島小学校の構内、現在「わかたけ」になっているところ。

木下博民氏の「私の昭和史 宇和島ふるさと交遊録」によれば、昭和20年7月13日「大雨の夜の大空襲」の事を書いているところで、丸の内に住んでいた知人が家を焼かれ、近隣の「宇和島幼稚園跡の防空壕へ避難」とある。

現在の城南タクシーと無人駐車場があるあたりと思われる。

前後のつながりから、その頃既に法圓寺にあったのか。

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この写真を、何時頃撮ったのか全く覚えていません。

この運動場で運動会をしたのは高学年になってからでした。

それまでは狭い中運動場でしていました。

たぶん、以前は大運動場の土の質が良くなかったせいだとおもいます。ある年、良質の土を大運動場にも入れることが出来たのでしょう。先生がうれしそうに「今年から大運動場で運動会をする事になった」と話していました。
当時は「運動会は裸足」が当たり前でしたので、大会前には良く小石広いをさせられました。

宇和島幼稚園の園児も、お遊戯とかけっこで参加していました。

まーきみ。の幼稚園の時、お遊戯の入場行進で、小学校のおにーさん&おねーさんが一生懸命拍手してくれてなんか照れくさかったのを覚えています。
照れ笑いする子もたくさんいたような。

かけっこでは、運動場を一周すると園長先生(校長が兼ねていた)が風船を渡してくれるのですが、必ずと言って良いほどトラックを一周っせずに、スタートからゴールまで、トラックの中を横切る「最短コース」を走る「つわもの園児」がいました。
園長先生も苦笑いしていました。

あの「つわもの園児」たちも今ごろいい大人になっているはず、きっと大物になっているでしょうface02

日頃、教室や運動場、トイレなどを共有している小学生達は、園児に対して概ね親切でした。

こっちからぶつかっていっても、相手が園児だとわかると、向うから「ごめん~こらえてやー」謝ったりしていました。

学校から「園児には親切に」と、きつく言われてるのかと思っていましたが、そうではない事を入学してから知りました。

もちろん、そのようないい習慣は自然に習いました。


左端の建物が鶴島小学校の講堂 右の比較的新しいのが新築した宇和島幼稚園 その左に、ほぼくっついてる建物が旧宇和島幼稚園の園舎。

この宇和島幼稚園の新園舎は現在「わかたけ」として使用しています。

写真では旧園舎は、少し基礎が低いような印象を受けまが、おそらくこの建物と講堂のあたりは地面が少し低かったような記憶があります。

昭和40年夏に円形の池ができたました。かなり最近までありましたが今は壊されてありません。段差のあった運動場と校舎が同じ高さになっているので、埋められたのかもしれません。鶴島小学校が建て替わった昭和平成元年頃か。




元々、田んぼで地盤が低かったので埋め立ての為の土砂を大量に必要としました。


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県道宇和島ー無月線の坂下津、馬越地区

この山肌が随分削られていますが、これによって得られた土砂をトロッコで運び、鶴島小学校の埋め立てに利用したそうです。

最近古老から聞いた話ではこの山の土砂は、小学校ではなく坂下津岸壁に使われたもので、小学校の埋め立てには現在の宇和島道路坂下津トンネル前の通称三平山の北側を掘削して用いた。運搬には板島橋の人道橋のあるあたりに、仮架橋してトロッコで運んだと言う。
(5月22日訂正)


昭和23年頃に、小学校と幼稚園が同じ時期に出来たと思われます。

この場所には、昭和18~19年の国民学校時代に丸の内の現在「たばこ産業跡地」から移転してきたそうです。

宇和島史誌には学校の設立は細かく書いているのですが、なぜか住所が書かれていないのは残念です。

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立体地図模型 後は南校舎


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現在の模型

この犬はj飼い犬か捨て犬か覚えていませんが、当時校内に結構捨て犬がいました。

概ね大人しくて放置していましたが、後年噛まれたという事件があったのか保健所に駆除を要請したこともありました。


小学校や幼稚園の頃の記憶は随分薄れて来ています。


とりあえずこれだけアップして、また分かったことがあればまとめて見たいと思います。