
再び鹿野川に来ました。
今は宇和島自動車しか通っていませんが、かつては「国鉄バス」「伊予鉄バス」も通っていたらしい。
鹿野川の町並 1 2 3 4

お寿司屋さん

ここは元「JRバス鹿野川駅」

現在は待ち合わせ&休憩所になっている

本も置かれている

小さなツバメの巣があった

この前にいた方に、元伊予鉄バスの営業所を聞いたが、よく思い出さないうちにタクシーが来たので乗って行かれた。
残念。

辺りを見渡し、鹿野川橋を渡る。(これより左)

遠くに小藪温泉の鳥居が見える
ここを右折し、肱川右岸を進む

中野小学校

この道は県道32号

川の向こうに学校が見える
大洲高校肱川分校

やがて、「赤岩橋」と言う肱川町営バスの停留所があった。
現在は大洲市営

近くに当然赤岩橋がある。

平成11年10月竣功

間を隔てて人道橋あり

こちらも「あかいわはし」

昭和40年7月竣功
人道橋にしては広すぎる感あり。
その後の調べで、これが最初の橋で、下流側が増設したものだと判った。
登下校の時は、大勢の生徒が一度に集中すると、渡し守には喜ばれず、男子生徒の中には寒風の中、霜の朝でも浅瀬をぞぶって渡る者もでてきました。
こんな 様子を目にして学校周辺の若者10名ばかりと語らって、渡し場付近の大岩伝いに橋を架けようや、という話しになり、早速、校区内の有志に集まってもらっ て、橋の話を持ち掛けると『金の工面や細かいことも考えずに人を集めてどうするんぞ』と叱られながら、『それを考えてもらうために集まってもろうたのよ』 とねばった結果、力を貸していただくことになり、役場の協力も得て、昭和24年(1949年)に木造の流れ橋が出来ました。
旧宇和川村の南北を初めて結ぶ橋ということで、中学生だけでなく地域をあげての画期的な出来ごとでした。しかし、この橋も洪水の度に流れる仕掛けであるため、架け直すのが大変です、流れる度に橋脚を少しずつ高くしましたが、しょせんは流れ橋でした。
昭和34年(1959年)町内4か所の中学校を統合するという時、その条件として赤岩の流れ橋を永久橋とする。との一項目が加えられ、実質統合から4年目 の昭和40年8月、流れない、いつでも渡れる橋が完成したのです現在は、歩道と2車線の橋を、との計画が進んでいます。
「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]
流れない、何時でも渡れる橋・・・と言うのが涙無しでは語られない。
調べてみると、子供の学校のために、と言って架けた橋が結構多い
近くでは、興野々橋とか「峠橋」

これより、さらに上流に行きます。
つづく
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