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目黒のトンネルを越えて


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ここには先年、文部科学大臣より重要文化財に指定された、「目黒山形関係資料」が保存展示されています。入場料、大人一人200円。

歴史資料部門では愛媛県内初と言う事です。



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なんと! 平日は管理人さんがいないので、電話をしなければならないface08


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早速電話をする、まーきみ。 測量士&整体師なら、これは見ないとね!face09





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げ!ここは圏外だ! 


そうです。一部、携帯会社によっては、ここは使えないのです!

仕方ないので、公衆電話で交渉すると、「2~3分で行きます」とのこと



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お昼休みにもかかわらず、駆けつけてくださった管理人さん。


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重要文化財が収められている倉


「目黒山形関係資料」

概要を説明すると
「目黒山形関係資料」は、江戸時代前期(1658年~1665年)に目黒村(吉田藩)と次郎丸村(宇和島藩)との間で起った山林の境界争いの幕府への裁決を仰ぐために製作された縮尺約5900分の1立体模型と関係図面、文書です。

驚くべき当時の技術

境界争いが起った経緯は、直前に吉田藩が宇和島藩から3万石を分封されるのですが、この目黒村は吉田藩の飛び地で周りを宇和島藩に囲まれていました。

山林は当時、今で言う「入会地」で藩内の村々の共有財産でした。木材や雑草は、百姓の生活には無くてはならない必需品で、ここで他藩との境界争いが起るとまさに死活問題でした。

しかも、宇和島藩と吉田藩は「もうひとつの伊達騒動」と言われるように、分封の経緯から仲が悪かったので、余計紛争に拍車がかかってしまったのでしょう。

目黒村庄屋長左衛門はとうとう、「百姓者末代ニ御座候」から始まる有名な訴状を持って幕府に採決を願い出て、幕府から「図面を持って再度願い出るよう」と命じられ、両藩両村合同で絵図面が作られたのだが、目黒村では更に精巧な「立体模型」が作られた。
伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を完成させる実に150年も前の事である。

この境界争いは幕府の裁断によって解決されたのだが、このために掛かった村民の経費や苦労はは莫大なものであったろう。

山形模型は長く建徳寺に保管された。寺院は当時、宗教施設のみならず、村落にとっての「政治や文化の中心地」でもあったのか。

昭和39年(1964年)頃、建徳寺より松野町に山形模型が保存されていることが報告された。松野町はその発見に驚き、町の文化財に指定して調査保存に努 めるが、その存在を全国に知られるようになったのは、昭和53年(1978年)小説家、司馬遼太郎が当地を訪れ、それらが作られた経緯を小説「街道をゆく 南伊予・西土佐の道」で紹介して以後である。


県の有形文化財指定を受けたのは平成14年、さらに国から重要文化財の指定を受けたのはつい昨年の事である。

このような貴重な歴史的資料が、現存するのはまさに驚異的なことだがそれでも即座に重要文化財に指定されたわけではない。

特筆すべきはそれらを発見したあと松野町や関係者の重要文化財の指定を受けるまでの努力と苦難の道である。

そして、それらこそが我々が本当に誇りうる「郷土の歴史・文化遺産」であると言えるのではないだろうか。


現在、山形、敷絵図のほか、裁許絵図1点、文書記録類208点が一括で重要文化財に指定されている。

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江戸時代の民具も多数展示。

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