
築地の花街を作ったときの記念碑

原文を読んでみましょう。
所々間違いがあるかもしれませんがご容赦を
昭和四年宇和島市港湾改修の進捗に伴い須賀川付け替えの議、決するや河身北陽を貫くを以って市長山村豊次郎深く之を憂い業者を融通して花街移転は計画を樹つ。
業者は今岡松太郎、藤原茂馬、矢島亀壽、曾我禎吉、吉本格一、河野利八、上田輝廣、青井清三郎、小島岩太郎等、率先之に賛同し相謀りて地を朝日町埋立地に相し初めて築地と命名し花街建設を企画す。
ここにおいて、まず地主兵庫県石野巳之助交渉してその協力を得、昭和五年四月料理屋営業地許可の指令に接すると共に直ちに工を起す。
即ち葦萩を刈り荊棘を抜き衆人一願となりて土地開発に富るや、日ならずして環境全く面目を一新す、これ実に築地の草創なり、後石野は之を譲りて友人御影町、八木秀次郎志を継承し力を事業遂行に頒注す。
家屋建築は専ら大阪市の請負業者黒石富蔵手にたくし六年五月営業を開始す。
その間幾多の障害と困難に遭遇せしも業者よく結束して之に堪え拮据経営数年を経て基礎漸く定まる。
爾来宇和島市の発展と共にこの地業界順調の進歩を遂げて遊宴の諸設備整い、社交場欠くべからざる地区として今日の興隆を見るに至れり。
その創立10周年に際し、築地料理屋業組合、置屋業組合、によりて記念の碑を建て事跡を禄して永くこれを伝う。
昭和15年 八月吉日 宇和島市長 高畠亀太郎 撰 拝書
この石碑を見ると、今では聞き慣れない言葉
「料理屋業組合」「置屋業組合」
などが書かれています。
昭和の初期、須賀川の付け替えにより北新町(現・御幸町あたり)から泉新田(現・築地)に移転してこの新天地で営業を始めた上記の組合によって建てられた石碑のようです。撰文は高畠亀太郎市長 昭和15年8月吉日 となっています。


向かって左の地蔵様には、元治二丑の年月が入っていた。

鼓潮園と言うのは何?

さらに記念碑の裏に

築地命名者 矢島龜壽?という裏書発見

この石碑がある地域は、90年代に埋め立てられた「朝日運河」の中になります。
後に見えるこげ茶のマンション「東雲」の前までが運河であった地域です。

映画「続々大番」の一画面
あの石碑は??

朝日運河があった位置
北新町あたりにあった花街が、泉新田に移転するきっかけになったのは、その所属する八幡村と宇和島町の合併協議が行なわれている大正9年に遡ります。
宇和島町との合併がこじれていた現状を見かねて、在京の穂積博士が仲介の労を取った事は既に述べたとおりですが、合併に反対する人々に翻意を促す意外な出来事が起こりました。
それは巡視に来た新任の警察部長が、「風俗取締りの観点から、農村に芸者を置くことは一律に禁じる方針であり、そうなると八幡村も村であるから当然置く事は参らぬ事になる」と警告したのでした。
当時北宇和郡には、八幡村の他に「三間」「旭(近永町)」「明治(あけはる・後の松丸町)」「日吉」など各村にも花街がありそれぞれ全盛を極めていました。
大正年には当時の鶴島町を舞台にした「伊予の仇浪」事件も起りましたが、この項では割愛します。
八幡浜の経済基盤は当時、花街からの収入に拠る所が大きくもし廃止になれば現在の財政は維持されなくなります。
これによって急転直下、翌年の合併実現となったのです。
さて、合併後に予定された大事業のうち水道敷設は紆余曲折の大苦心の末に、大正15年に県下に先駆けて完成することが出来ました。
そして昭和五年よりもう一つの懸案事項「内港整備に伴う須賀川の付け替え事業」が始まりました。
そして、その新しい須賀川が当時の花街を通るために、新たな移転先について警察を交えて協議することになったのでした。

須賀川沿岸の地図 上の赤枠が「北陽花街」 下が「築地花街」

佐伯酒店、キリン館(現・清岡眼科)前から国道56号線にかけて須賀川が流れていた。
この須賀川を、和霊神社の前方に架かる「御幸橋」から上流120間(約220m)現在の城北中学校あたりから破線の部分に付け替える計画でした。
昭和3年より用地買収交渉 買収対象面積1万5550坪、居住世帯150件、うち花街関連は、料理屋25、置屋9軒が移動の対象となりました。地代、家屋の移転補償、休業補償なども市から拠出されました。
施工は東京清水組(現・清水建設株式会社)起工は昭和五年
完工は昭和7年10月 通水式は翌年一月。
ちなみに上水道の通水式同様、工事の一番の功労者である山村豊次郎は市長の席にいませんでした。起工式の翌年に行なわれた市会議員の選挙で自身の所属する政友会が民政党に敗れたため民意を尊重して辞職したのでした。(衆議院議員として出席)


昭和35年頃の須賀川
さて、花街の移転に関する警察の見解は「現在の北新町(北陽)は不適で、泉新田が適当であるが過去に現在地に集めるよう圧迫された歴史に鑑み、移転するのも現地に残るのも許可する」と言う方針であると言う極めて寛大なものでした。
拠って、未開不毛の泉新田地区を敬遠し現在地に残る業者、新たな地で花街向きの建設を行いたいと言う業者とに分かれることになったのです。

北陽の芸妓たち(大正10年頃)

築地花街 店の名前が記されている。
その後、両者がどのような興隆ー衰退の歴史を辿ったかは、宇和島市誌には書かれていません。
一時期は「料亭政治」が宇和島でも主流となり、山村豊次郎などもそれらを大いに活用したとある。
戦後の民主的な法整備や生活様式、社会様式の変化により、その歴史は人知らず時代の波の中に飲まれていったのでしょうか。

歩くのは加東大介扮する赤羽丑之介
映画「続々大番」の一シーン
あの石碑がまさにそれか?

朝日運河から見た築地花街の様子(昭和30年代か)映画「続・大番」より

加東大介や多々良純

三木のり平
資料1 宇和島懐かしの写真集(遊郭)
旧町名「北新町」花街があったところ

旧町名 北新町

花街の多くが河床になるため、市は代替地として西の築地を提供した。
警察当局は当初、現在地での営業を認めない方針であったがそれまでの経緯に鑑み、希望者には引き続き当地での営業を許可した。
宇和島には2つの花街が存在した。
(注・大正時代他にも元結掛にも花街があり南新地と称した)

現在は御幸町一丁目 付け替え後の須賀川が側を流れる。

西には旧須賀通

東には和霊公園がある。

このあたりの町並みは時代とともに刷新され、昭和を偲ばせる建物もすっかり少なくなった。
最後に、よっちゃんさんから頂いたコメントを掲載します。
私は昭和12年に寿町で生まれ、小学生時代を弁天町で過ごしました。築地の花街に同級生がいた事や、近くに親戚があったことも含めて花街は私の遊び場の範囲でした。
高校を卒業したときはまだ売春禁止法の出来る前でしたので、この街のことはかなり鮮明に覚えています。
泉新田と呼ばれた埋め立て地(現在の寿町・弁天町・築地)はもともと海だったところに出来た土地ですから、全部を朝日町と呼んだと思います。(私の出生地も本籍も朝日町になっていました)
物心ついたころには駅前から宇和島運輸(別府に行く船着場)までの臨港道路はコンクリート道路でしたが、他に舗装道路はなかったと思いますが、街は長四角に区画されていました。
臨港道路の海に向かって左側は(現在の市役所は海)市役所の手前は広い材木置き場、先に行くと福助湯のあたりに人家があって先には工場と空き地、(現在の高速道路をくぐると)宇和島造船と三好造船、その先はアシの生えた原っぱでした。
臨港道路の右側は裏側には空き地が点在していましたが、道路に面しては住宅が軒を連ね「山田キャンデー」「松下タバコ屋」などあり、現在の高速道路を超えると、住吉山からここまでが朝日運河(海)で住吉町とは離れていました。弁天町側は押方製材、と山村製材が広く、朝日運河の方は工場街でした。
弁天様の手前には住宅が点在していましたが、それを過ぎると築地の花街で、弁天様と同じ幅の一角が2地区ありました。朝日運河に面した「東雲}などの料亭が並ぶ通りと、弁天様の角から伸びた通りに面した「吉住」などの通りです。
正確に言うと両方の料亭の背中合わせになるところに細い路地がありました。芸者などは裏口から入っていくものでした。この路地は昼間も薄暗いところでしたが、私たち子供の遊び場で、ここで遊んでいると、昼間は住み込みのお姉さんが、踊りや唄、三味線、太鼓の稽古をしていて、よく聞こえていました。(芸者さんは置屋にいるものと後年知りましたが、私の知る限り料亭ごとに住み込みのお姉さんがいました)この通りのさらに左側にも料亭が3~4店ありました。一番弁天様に近いところは戦後進駐軍に接収されて、「東雲ダンスホール」として外国人が毎夜聞きなれない音楽で踊っていました。
「東雲ダンス}の裏側から宇和島運輸のあいだは、わずかに家屋が点在しほとんどアシの原っぱでした。ここに平屋の市営住宅ができたのは昭和23年ころでしょうか。前の道は雨が降るとしばらくは、ぬかるんでいました。
防波堤の手前は広く塩田で、私の親戚がやっていました。

築地の芸妓
昭和30年代後半
わしも記憶にある戎山の親戚の家の祝い事
親戚が築地のどっかの料亭と親しいのでそこから呼んだとおふくろが話してたな。どこやったかな?
この場面はわしもいて(3~4歳くらい)子供心に珍しいのでよく覚えてる。
それまで日常接していたおばちゃんらとは違うというのは子供心に感じた。
三味線の年配の女性が、隣室に行くとき、男性陣から投げかけられた言葉に「ふざけんな!」と暖簾をくぐりながら返した言葉に粋だなぁと思った。(無論粋という言葉はそのころ知るはずもないが)
母親の記憶だと、築地の丸正と言う料亭だという
母親の記憶だと、築地の丸正と言う料亭だという





河野善福産の話
この地図は昭和20年代も終わりころですね。戦後すぐからこの辺りではよく遊びました。母の兄がこの地図の東雲別館の「別館」の文字にあたるところに住んでいて、堤防の付け根の広場で塩田を経営していました。後に鮮魚加工をしました。
築地のメーン通りは丸正とむさしの間で、東雲・小白浜の玄関のある海岸通りは一般の人は通りませんでした。小白浜とむさしの背中合わせになる通りは狭くて暗い通りでしたが、私は表通りよりもこの裏道を通ることが多かったです。昼間は両側の料亭から、太鼓・三味・唄声などおねいさんの練習音が漏れてくる裏通りでした。
「東雲別館」の東の字の位置に工場が出来たのはかなり後です。丸正の裏も貯木場の前は葦の原っぱで、ここに平屋の市営住宅が出来たのは25年頃かと思います。


東雲
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