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 堀部公園から

 見晴らしがずっと良くなって、行楽客も増えるかも



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 堀部彦次郎の銅像
 
 小学校の最初の遠足がここだったので「堀部」と言う名はその時から覚えてしまった。
 
 先生が、銅像の前でなんか話をしてた記憶があるが、憶えていない。

 おそらく先生の話は、子供には難しかっただろうと思われる。

ところで、この遠足の時ある事情で自分だけ母親同伴で行ったような気がするが定かでない。

私が遠足に行った昭和41年当時は、銅像はここにはなかったことが新聞記事より判明(下画像参照)


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昭和38年3月



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昭和48年8月

 


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 碑文
翁は万延元年三月宇和島市宮下に生を受け 長ずるに及んで地方の文化 交通 産業の開発に志し宇和島運輸を初め宇和島銀行 宇和島土地 続いて第二 第三宇和島土地 宇和島自動車等の各會社を創立し 或いはその企画に参加して 頭取 社長等自らその経営を主宰し 生涯を通じて地方の為真に偉大な功績を残されたばかりでなく 教育にも深い関心を持ち 幾多有為の人材を養成せられた事は郷党のあまねく知る所である。
つとに翁の生前堀部公園に胸像が建てられたが戦時中惜しくも撤去せあっれたので之を遺憾として有志相謀りここにこれを再現して偉功をを永く後世に伝えようとするものである。
昭和三十七年十二月
堀部彦次郎翁胸像建設委員會

戦時中の金属供出で失われ、再建された銅像は数多いが、この銅像もそうだたっとは知らなかった。
今西幹一郎 二神駿吉

見るからに精悍な顔で、前に立つと怖いようだ。
明治時代、宇和島内港改修を陳情するため開いた県知事を招いての酒席で、知事の発言に立腹し、食って掛かったと言う逸話もある。
飛ぶ鳥を落とす当時の知事に対する「暴挙」に周囲は顔を青くしたが、一人中原町長だけは「よくやった」と彼の行動を褒め称えたと言う。
『出典・宇和島の明治大正史 津村寿夫著』

「宇和島で会社と言えば宇和島運輸、社長と言えば堀部さん」と言われた通り、彼一番の大事業は宇和島運輸の経営であろうか。
大坂、九州航路だけでなく近海の離島航路も経営し、中でも赤松の「覗き岩遊園地」を開発しての観光客誘致は当社のドル箱的航路となった。
このように観光地を開発して航路を開き観光客を誘致すると言う手法は、その後宇和島鉄道の社長に就任したときも、吉野の文殊公園開発ー鉄道の伸延など同様の手法が見られた。
余談だが、宇和島鉄道は彼の死後、社長に就任した山村豊次郎に寄って国鉄への買収に成功
井谷正命、今西幹一郎らが心血を注いだ北宇和郡の悲願であった「四国循環鉄道構想の実現」に大きく前進したのである。



宇和島の歴史そのものであった宇和島運輸は、戦後本社を八幡浜に移し、市内に唯一残っていた別府ー宇和島航路も平成に入りその幕を静かに閉じた。

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 遺構となったフェリー乗り場 「宇和島の赤橋

 
宇和島運輸に関しては、ここが詳しいのでご参照を

宇和島運輸と最後のフェリー


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石碑には「高畠亀太郎」の名も見られた。


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 その他、石碑も多数
 

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  是非、現場でご高覧を<(_ _)>



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堀部彦次郎の息子で長山家に養子に行った長山閑子の句碑

まいゝの舞ひつかれては草による
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裏面

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 トイレもある。  昔風だが、清掃はされているようだ




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 長堀、山際方面


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 一際高い塔は、夏目町の市営団地の時計の付いた給水塔



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 丸いのは、県営宮の下団地上の給水塔



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 この石は?



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 これも加工がなされている?





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 石を抱いた木の根

 風化により、土が削られて根が露出したのか?


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 堀部公園は「堀部彦次郎が屋敷の一部を提供して公園にした」と言う説と「彼の功績をたたえて、賛同者が作った」と言う2通りの話を聞いたが、石碑に拠れば、後者が正しいと思われる。



 

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