
堂崎に行きました。
小学校と中学校の時と、2回遠足に行ったがお寺には上がらなかった。

小高島の一番九島寄りに神社があるようだ。

堂崎に着いた
ここでお弁当を食べたり、あるときは泳いだりした。
当事は石浜だったが、地元の人の話だとずっと昔は砂浜だったそうな。

左方の横に長い島は「高島」
テトラポッドの間の島は「野島」
左方テトラポットの沖の小さな岩の島は「鍋島」である。
高校時代、鍋島の近所で釣りをした。

この県道の堀切が何時ごろで来たか知らないが、地元の人の話だとこの向こうにかつて「九島村役場」があったそうな。
廃線隧道【BLOG版】
愛媛県内の道路元標の位置に拠ると、九島村の道路元標の位置は
【289】九島村(S09.09/01 →宇和島市) :字居浦二番耕地千二百九十二番地地内
と言う事になっている。
この地番がおそらく、この辺りになると思われる。
九島村は明治22年の町村制施行時に成立し、昭和9年に宇和島市と合併して消滅した。
さて、石応に「りんごまち」と呼ばれる地区がある。

白浜との境、だいたいこの辺りか?

太田橋 昭和36年3月架設
私が聞いた「りんごまち」の由来は、ある方の話では大体下記の通りである。
堂崎付近の土地の所有者が、ある時九島村役場建設のために譲渡し、この地に移ってきた。
当事、周りは田んぼで家が無く、冬季は北国かと思うほど風がとても強く寒かった。
戦後一世を風靡した流行歌「りんごの唄」の一説「りんごの気持ちは良く分かる」とは、こんな気持ちではないか?と思った事が「りんごまち」のそもそもの由来であるとか。
(異説あり・コメント参照)
しかし、そのネーミングが遠く世代を超えて現代まで語り継がれるには、さらなるエピソードがあったのではないかと想像する。

さて、堂崎のお寺に行きます。

この案内板に従って

この路地を行く。

入口が見えてきた。

堂崎山 観音禅寺

ウバメガシの下に参道が続く。

階段寄付者の名前が刻されている。

途中、自動車道も整備されている。

このように道路拡張工事が
この堂崎の土地の一部に、古来より石応部落の中地(共有地)があり、10筆以上に分かれている。現在、自治会を地縁団体として所有権登記作業が進行中であるらしい。
自治会では登記出来なかった時代、部落の共有地は、他者への所有権移転を避けるため、10人前後の部落代表者の共有名義になっていることが多い。
平成に入ってから「地縁団体」として登記できるようになったが、上記の理由と時代を経ているため名義人が死去し、孫子の時代になって権利者が多数になったため登記作業は遅々として進まず、それ故費用もかさみ手をつけるのを躊躇う自治会も多い。
「新たに法律作らんと、どうにもならんやろ」と、ある役所関係者が述懐していた。

平家の落人伝説の説明板あり
平家の落人を追ってきた源氏の武将が、心ならずも残虐な殺戮をしてしまったのを悔い、この地に留まり出家して死者の菩提を弔った。
と言う内容かな?
宇和島市長 中川千代治
中川氏が市長だったのは昭和47まで、任期途中で死去した。
泰平寺にある「平和の鐘」のお話はあまりにも有名
また、戦災で消失した宇和島幼稚園の再建にも尽力した。

こちらは石段

昭和13年の建設

程よい木陰で、夏は涼しかろう。

明治時代の年号が入った手水鉢

この手摺は近年作られたもの

山門が見えてきた。

山門の向こうにお堂が見える。

立派なお堂だ

向拝の彫刻も美しい。



木鼻は獏?

本堂

観音寺

ずらりと並ぶ寄付の石碑

此方にも

新しいのも

趣のある池

古いかわらが置かれてあった。

さて帰ろう

ここで遊んだのも、遠い思い出。
「石応」が読める人は少ないでしょうね。