宇和島藩には3つの砲台があった。




一つ目、久良砲台(愛南町)





二つ目、樺崎砲台(築地)



そして、もう一つが小説や歴史書などには記載され、図面も残っているのですが長い間場所が特定されずに「幻の砲台」だったうちの裏山の砲台について、「お台場」「玉蔵」と言う地名が語り継がれている場所がある事を知りました。
50年程前には穴を掘っていて砲弾と思われる鉄の玉を数個掘り出し、子供達が転がして遊んでいた。。。と言う話も聞きました。

歴史を研究してる人たちと一緒に案内してもらいました。



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宇和島運輸の桟橋から見たところ





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同所より

あの赤印の所が砲台があったとされる場所である。


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ズーム

あの青い丸は、テレビの協聴アンテナの電柱

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戎山の尾根より


人が立っている場所が地元で「お台場」と呼ばれる場所。

左方の電柱は、協聴アンテナの電柱


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赤丸の辺りが「玉蔵」と呼ばれる場所




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半世紀前、ここから砲丸状の鉄球が出土したと言う。

樺崎砲台を再建中のそれらしい鉄球が出てきたが、未だそれが大砲の玉であるかどうか、文書など証拠が無いので証明できずに居ると言う。



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対岸の赤丸は樺崎砲台跡あたり




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線で結んでみました。概ね1,2km



恵美須山砲台について

名称は「戎山砲台」とも書くが、正しくは「恵美須山砲台」と言う。
元治元年(1864)7月工事に着工し、翌慶応元年6月に完成した。

「龍山公記」に、パークス来航の先触れとして、慶応元年6月23日に来航した測量船サーペント号を「恵美須山砲台下に繋ぐ」と記されている。

樺崎砲台(1850年完成)と共に、幕末の宇和島湾を東西から守衛していたが、「湾の両側には小さな砲台があったが、それは実際の防御よりも、むしろ見せかけのものだった」とアーネスト・サトウ(「一外交官の見た明治維新」)から酷評されてもいる。

伊達文化保存会には「樺崎御砲場絵図」とともに「恵美須山御砲場」絵図が保存されている。
絵図に拠れば、御砲場の総坪高は、「樺崎」の513坪に対し、「恵美須山」は379坪である。
恵美須山砲台には付属する屯所が2箇所あり、砲台に近接して一箇所、壱丁ほど離れてもう一箇所あった。
伊豫史談272号「九島の遠見場と恵美須山砲台」より

上記の伊豫史談会の資料には、砲台跡は現在の赤灯台の基から、裏山に50mほどの図面が紹介されている。
 これは明治九年の反別畝順帳の地番から探し出したようであるが、標高約90mの2つの山頂の中央部(写真)にある戎山の建築業のH氏の所有する畑が、お台場跡であるという複数の証言を得ている。

近隣の土地の所有者T氏が幼少期、父親がその畑から掘り出した数個の鉄球で遊んでいたと言う証言からも、その説を有力にしている。その鉄球は保存されて無いのが残念である。 砲台のための屯所の跡といわれる場所に、維新後伊達家から戎山の払い下げを受けた本町の醤油醸造業石崎忠八氏の別荘が建てられ、今もその場所にある建物は近所の人々に「別荘」と呼ばれている。

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砲台があったと思われる場所



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その数メートル前方は断崖絶壁になっていて、頑丈な石垣がある。





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草をなぎ払ったら、吸い込まれるような絶壁 7~8mはあろうか・・落ちたら大変!足がすくむface08

いわゆる土木の石積みの三分勾配より急傾斜に見えた法面。 人工的に作ったに違いないが農地のためならこんな危険な崖は作らないだろう。

やはり、「お台場」風設計か?愛南町の藤田儲三先生のお話では、この高い石垣があることが砲台の証拠の一つだと聞いた。



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少し離れたところに、浅い場所があったので降りてみた。



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如何にもみかん畑風ではない頑強な石垣



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この道は最近整備されたものだが、元々あった道を広げたものだと思う。



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ここからは宇和島城も一望出来る。


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恵美須山砲台は元治元年(1867)に建設された。


未だに、正確な位置は発表されていない。