宇和島市 須賀川沿いにある和霊公園

須賀川は、昭和7年よりの付け替え工事前は、現在の和霊公園の中を流れていた。

丁度この左の道路と公園のあたりが川だったらしい。
木々の向こう側に、大きな石碑が経っている。

山村豊次郎の頌功碑
宇和島市の初代市長で、その前後には衆議院議員を勤めた。
この頌功碑は、いつどのような経路で建立されたのだろうか。
「山村豊次郎傳」を調べてみた。
頌功会設立の発端
昭和8年11月、山村豊次郎の頌功の事業を起こしたいと、宇和島市長井上源一が樋口虎若、井上雄馬と協議し、三人連署の主唱の下に官民有力者45人に対して発起人になるように交渉した。
全員、快諾を得たので同月9日に、丸の内の蔦屋旅館で会合を開き、頌功会を組織して建設委員を選任した。
当初は銅像建設の予定であったが、山村本人より下記の理由により辞退の申し出があり、碑文程度で済ますことにした。
山村豊次郎の返事
1)自分は生来の無能で何等知遇に酬ゆる處之無し、過去に与えられた地位に対しては寧ろ功無きを恥ずる次第である。
穂積陳重先生でもご辞退され、当地の先輩においても誰も銅像建設した人はいないのに自分が請けるわけに行かない。
2)人の功罪は死んでから決まるもので、銅像建設は100年の後、世論が一定してから決めるもので、伊藤博文の神戸の像のようになっては、寄付者に申し訳が立たない。
二神俊吉氏も、同様な理由で辞退の意思であったが、知らない間に計画が進められてあって仕方がなかったが、自分はどうか辞退させて頂きたい。
銅像はその人の全人格と遺徳を表彰するもので、自分は請けるわけには行かないが、折角多数の方々の御厚志を無にするのは忍びなく、僭越ながら私のある事跡を記念する小規模でなるべく経費のかからない物をお願いしたい。
また時節柄、寄付募集に際しても、勧誘がましいことは一切見合わせていただきたくお願いする。
建設委員会は11回に及び、当初の銅像建設を変更して頌功碑建設を決議、5千円の予算を計上して寄付を募ることにした。
発起人
井上源一 井上雄馬 池下常五郎 石崎忠八
林巳之松 堀部俊介 兵頭賢一 兵頭輝行
岡島盛夫 尾下鶴正 岡田一 柏木乙一郎
神森眞一 川添九吉 川野治享 吉原多七
高畠亀太郎 高橋小一郎 津村壽夫 長妻篤日子
中村惣八 中川鹿太郎 中平常太郎 長山芳介
村山半蔵 植田延太郎 久都直太朗 国松福禄
久野修造 久留島豊 山崎章一 山崎好夫
槙本源蔵 松浦源太郎 牧野虎恵 松本善保
福田虎橘 藤本藤平 古城貞 佐々木僥
菊池傳次郎 三善定雄 参河恂五郎 宮田正一
溝口正文 清水齋 久松操 樋口虎若
森本卯之助
建設委員
建設委員長 井上源一
建設委員
井上雄馬 柏木乙一郎 高畠亀太郎 中川鹿太郎
中村惣八 中平常太郎 久都直太朗 牧野虎恵
古城貞 佐々木僥 溝口正文 清水齋
樋口虎若 森本卯之助
碑石の選定
尚、碑石は当初成川渓谷、薬師谷,毛山立石などで探したが適当な自然石が見つからないので石工業者小島鶴太郎氏の進言で香川県の庵治石を使用することにし現地に原石検分に赴いた。
香川県五劔山下の原産地、牟礼村(現・高松市)で天地一丈五尺(約4,5m)、幅六尺五寸(約2m)、厚さ二尺三寸(約0,7m)、重量六千貫弱(22.5t)、光沢あり所謂庵治石と称する花崗岩を、所有者も発掘して10余年経ち、持て余していたので相場の3分の一に近い安価で譲り受けることが出来た。
碑石の運搬
庵 治石の産地として有名な香川県の現地においてさえも未だこれほどの巨石を積み出した経験は無いと言うので心配した訳だが、いよいよ一切の準備成って3月30 日の満潮を期し、積み出しに着手したところがやはりその日は失敗に終わり、やむなく次の満潮日4月15日を待って失敗の経験に鑑み、萬遺漏なきを期して碑 石と〇石(読めない)を二隻の石材運搬発動機に分載し漸く高松港を発した。
そして5日間の航程で同月20日朝日運河に無事到着したので一同安心、24日に陸揚げ作業を行い5月5日から運曳作業に移ったが、現場に曳行する迄には実に9日間を要した。
(山村豊次郎傳 原文)
山村豊次郎君 頌功碑
山村豊次郎君は、我宇和島市を発展せしめたる功労者なり
君は旧宇和島藩士松村氏の出にして
裁判所の給仕より身を起こして法律に志し、明治23年上京して日本法律学校に入り、蛍雪の功を積み業を卒へて弁護士となる。
爾来、郷土にありて各種自治体の改善を図り、また衆望を負うて衆議院議員たる事、前後2回に及べり。
大正9年、八幡村合併の使命を帯びて最後の宇和島町長となり百難を排して町村を合併し、遂に宇和島市制布くに至れり
大正11年、第一期市長に推されるや重要の諸懸案を解決する事、快刀乱麻を断つの概あり。
上水道の敷設、市庁舎の新築、港湾の改修、運河の開削、花町の整理、須賀川流域の変更より、鶴島町、朝日町、寿町、弁天町、御殿町、桝形町、明倫町、和霊町東通の新設に至るまで悉く、君の經綸(けいりん・国を治め、整える事)に出でざる莫(な)し
加えてこれ、君が愛郷の熱誠は直接市営事業のほかに及び、或いは電気に、ガスに、鉄道に、海運に、地方文化発展の基礎的創業に努力し、或いは郡部の土木に、勧業に、水産業の振興に盡瘁(じんすい・後述)せり
特に君が奔走の結果として私設宇和島鉄道の国有に移管せられ延いて南予地方における国有鉄道問題の解決せられたるは即ち数十年に亘る市郡民の翹望を実現したるものにして、郷黨を挙げて感謝措く能はざるところなり
而も君の功績は独り物質的文化に止まらず、精神的文化に於いても高等女学校、商業学校の創立を始め一般教育の統制、部落の改善、新聞事業の刷新等、その功労、亦、実に枚挙に遑(いとま)あらず
嗚呼、君が明治、大正、昭和の三代を通じて、終始一誠、我宇和島市の興隆に貢献したるは万人の具膽(ぐせん・囚人が仰ぎ見る)する所、その仰いで以って宇和島市の慈父となす。
豈(あに)偶然ならんや及(すなわ)ち郷黨の有志相謀り地をとし碑を建てその功績を不屈に伝うと言う
昭和9年9月
従四位侯爵 伊達宗彰 題額
正四位 西村保吉 撰文
廣 群鶴 刻
註
碑石外高14尺2寸 幅6尺5寸 厚2尺3寸 題額7尺平方6字、
一尺平方3字 本文2寸5分平方711字 台石外高1尺6寸
舗製台3尺3寸 地上総高19尺


厚さ70センチ
注 『盡瘁』諸葛亮孔明の「鞠躬(きっきゅう)盡瘁(じんすい)」に由来する言葉
「鞠躬」というのは、腰をかがめて姿勢を低くして頭を垂れる、
「盡瘁」は心命を賭しても国家・国民のために尽くすと言う意味
この鉄棒は、戦時中供出されたらしい。その後再建されたものと思われる
註 校正ミス

山村豊次郎傳原文

二行目の2段「幻時」は、石碑本文より「幼時」であることが判明


昭和30年、新聞記事
是には誤植無し

戎山部落協議録にも記載されている
昭和9年1月24日部落集会開催
山村豊次郎氏頌功碑寄付に付き一戸宛50銭の寄附を集める事を決定散会す

ささき整体施術院
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