新聞広告における愛媛県内の酒造所、銘酒(昭和30、31年)



昭和29年

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銘酒「さくら美人」

北宇和郡畑地村

赤松吟醸



昭和30年



30年 (6)a

健白菊(ケンシラギク)

健白菊酒造株式会社

周桑郡小松町石根


30年 (7)a

桐万長(キリマンチョウ)

二宮酒造場吟醸

西宇和郡保内町川之石

30年 (7)b

正路(ショージ)

兵頭酒造場吟醸

保内町



30年 (7)c

壽(コトブキ)

清水酒造場吟醸

西宇和郡保内町喜木



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山木正宗(ヤマキマサムネ)

三好共栄株式会社

西宇和郡三瓶町



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特選 雪娘(トクセンユキムスメ)

雪娘酒造株式会社

上浮穴郡久万町



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野雀

東緒方酒造場

東宇和郡野村町


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白梅花(ハクバイクワ)

宇都宮酒造場

東宇和郡宇和町永長

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池鶴(イケツル)

肱川酒造株式会社

大洲市





30年 (28)f



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喜多美人(キタビジン)

後藤酒造合名会社

大洲市八多喜町


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天狗

今出酒造株式会社

松山市西垣生今出



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中貞酒店

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かつて「今出酒造株式会社」として「清酒 天狗」を造っていた。
全国酒類醸造家名鑑 1965にも掲載されている



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明治43年7月4日登録

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多賀鶴(タガツル)

黒田酒造株式会社

周桑郡壬生川町


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御代栄

御代栄酒造株式会社

周桑郡壬生川町周布


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志ら玉

志ら玉酒造株式会社

上浮穴郡小田町






30年 (27)a

笹の井(ササノヰ)

笹の井酒造株式会社


30年 (27)b


健心

奥山酒造株式会社

今治市北新町




30年 (27)c

みかど菊水(ミカドキクスイ)

水田酒造合資会社

越智郡菊間町



30年 (28)d

藤の井(フジノヰ)

関西酒造株式会社

越智郡吉海町


30年 (28)e

萬歳春(バンザイノハル)

桜井酒造株式会社

今治市桜井








30年 (28)g

大瀧(タイリュウ)

川本酒造場

八幡浜市


30年 (30)a

國乃富(クニノトミ)

仲田酒造株式会社

伊予市港町




30年 (31)b

福長(フクチョウ)

明関酒造株式会社

伊予市八倉


30年 (31)c

島錦(シマニシキ)

奥島酒造株式会社

伊予市双海町上灘




30年 (32)d

飛馬(トビウマ)

末光幸三吟醸

八幡浜市


30年 (32)e

朝福(アサフク)

福島酒造場

宇和島市佐伯町



30年 (32)f

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萬福(マンプク)

大久保酒造

南宇和郡御荘町






30年 (34)a

京美人(キョウビジン)

東陽酒造株式会社

新居郡角野町





30年 (34)b


大鏡(オオカガミ)

大鏡酒造部

西条市中野



30年 (35)c


石鎚

石鎚酒造株式会社

西条市氷見

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30年 (35)d

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御山露(ミヤマノツユ)

日和佐酒造場

周桑郡壬生川町


30年 (35)e

日本心

武田酒造株式会社

周桑郡三芳町


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萬樂(マンラク)

合名会社 東小西酒造場

津島町岩松


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玉乃川 (タマノカワ)

鳥羽酒造場

吉田町

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伊豫美人(いよびじん)

正木本店

松野町松丸


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春駒(ハルコマ)

井谷本店

日吉村



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日々の力

佐々木酒造場吟醸

伊方町


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玉椿

佐竹吟醸

北宇和郡泉村


当主は善衛の5男にして明治43年10月10日分家戸主となる。国勢調査委員、小倉区長に歴任。高倉製糸会社代表社員たり。
家は清酒(玉椿)を醸造す。

愛媛県人物名鑑 第3輯
出版者 海南新聞社
大正12-13

「伊予の山水と人物と事業」では「明治43年兄、正治郎から酒造場を譲り受ける。
「映画常設館キリン館重役」とある。




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力草(チカラグサ)

合資会社 長瀧酒造

長瀧栄一郎

宇和島市裡町







31年(重複あり)

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菊美ど里(キクミドリ)

菊池酒造合名会社

宇和島市栄町


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玉乃川 (タマノカワ)

鳥羽酒造場

吉田町

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誉美人

本福島酒造合資会社和霊町


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春駒

井谷太郎

北宇和郡日吉村下鍵山





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朝福

福島勝義

宇和島市佐伯町

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伊豫美人

株式会社 正木本店

北宇和郡松野町




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野武士

正木正光

北宇和郡松野町


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伊豫菱

谷口万一郎

南宇和郡城辺町


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萬福

大久保酒造株式会社

南宇和郡御荘町


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伊豫鶴

城鶴酒造有限会社

宇和島市丸之内



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三壽

阿部酒造株式会社

北宇和郡津島町


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花ふさ

赤松酒造株式会社

宇和島市桜町

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暖雪
合名会社 河野酒店

北宇和郡来村(並松ーー現在は山際)





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発展

土居酒造有限会社

宇和島市富沢町



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金丸

北宇和郡岩松

西村扇蔵

昭和27年


30年 (14)

つわもの鶴

兵頭酒造株式会社吟醸

八幡浜市



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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制







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続きを読む

昭和30年代の宇和島自動車の画像





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昭和35年頃


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このロケも35年頃




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37年の記事



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37年に、信用金庫と本社を交換した宇和島自動車

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28年頃の地図


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錦町の営業所か?

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堀端車庫

山口テレビラジオ

山本レンズ堂

アライアンス協会


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旅館(やくも)

岩沢理容店

など

市立病院の塀が工事中

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鶴島整備株式会社

高串川が流れる

宇和島缶詰の煙突が見える





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遠くの山の煙突は?

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宇和島自動車学校


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昭和36年頃出来たはず

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ギャランΣか?

だったら年代は新しい

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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制





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昭和28、29年の宇和島市の地図(改訂版)


昭和28年の「大宇和島立体市街図」

第7回国民体育大会を記念して作ったらしい

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裏面に店舗や施設の名前

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拡大します

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日本商工業別詳細図 昭和29年


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拡大します

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裏面




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拡大します


戦前の地図はこちら

大正ー昭和10年代の宇和島市地図と変遷











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郡是(グンゼ)宇和島工場の閉鎖(昭和27年)(おまけ 融通座)



グンゼと言えば、パンティーストッキングyan


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テレビのコマーシャルで刷り込まれるほど聞かされた。


「郡是製絲株式會社」は郡の是である意
創業地の何鹿郡(現・京都府綾部市)の地場産業である蚕糸業を、郡(地域)を挙げて振興・推進していこうという、元農政官僚で殖産興業の父と呼ばれた前田正名の趣旨に基づいている。
グンゼ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戦前は蚕糸業が主であったが、徐々に人絹(レーヨン)に取って代わることになる。



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昭和28年の新聞記事

27年1月に閉鎖した、中の町で操業していた「郡是宇和島工場」


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昭和14年、桐田製紙の跡地を買収して高知の工場を移転、創業とある。

2,3年前までは二百数十人の従業員がいた。

原料入手困難から来る生産能力の低下で、年間500万の赤字、ついに1月の旧正月旧家と言う名目で操業を停止して、閉鎖の手続きに入る。この時の組合員は73名。おそらくその大半が解雇されたと思われる。

当時の市長中平常太郎が存置の要請をしたがすでに手遅れであった。

その場所を探していたが、昭和6年の地図に「桐田製糸」を発見した。

昭和14年頃は「宇和島製糸場」という名前になっていた(経営者は同じ)


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場所は現在の京町

「はちのす」~「四国電力寮」あたりか


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さらに、薬師谷入り口の大師堂に、桐田の名前を刻した香炉発見、住所も中ノ町


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昭和45年の地図


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昭和30年の航空写真

あの丸印のところと思われる


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ちなみに右上の矢印の建物は、昭和40年に閉鎖した融通座だと思う。

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昭和30年宇和島市街航空写真

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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制


宇和島高等女学校のストライキ(大正10年)と制服の変遷



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桜町にあったころの宇和島高等女学校


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白黒写真で分からないが、紺色だったらしい

以下「宇和島の明治大正史」より引用
文中にも見るようにその頃の女学生はすべて和服に海老茶袴であった。それに下駄をはいている。体操の時間だけ草履に履き替えた。学用品は風呂敷に包んで両手に抱くように載せて通学した。
制服の出来たのは大正時代でそれは紺地に折襟の洋服、一見すると今日の自動車の女車掌の着ているようなものに似ていた。(画像参照)同時に黒靴が登場した。しかし制服はそれから後、一二度変化した。


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制服は規格がアバウトだったのか前の重ねが左右逆のもの見向けられる。いわゆる「おとこまえ」

宇和島高等女学校最後の入学者のひとり上野禮子氏の話では「制服は自分で縫いよったぜ」と言う事から今のように洋品店で指定の制服を買うのではなくオーダーメードだった。


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市立病院の裏庭に、「愛媛県立宇和島高等女学校創立の地」の碑がある




大正10年、愛媛県立宇和島高等女学校に於いておそらく全国で初であろう「女学生のストライキ」が決行された。
本科22回77名、3年生が中心となりのちに4年生の一部を加えて、署名血判の上、裁縫室を͡拠点とし、時には西江寺に集まって気焔をあげ、誠に勇ましい限りであった。
まさに大正デモクラシーを象徴する民主化運動の走りと言ってよい。


抑々の発端は、校長、中矢清七郎の不当な人事の撤回と真相究明などを要求したことに端を発する。


大正9年6月、県視学だった中矢が校長となり、翌10年4月までに田原実教諭をはじめ、15人の教員が転校または退職。続いて5月、三好豊太郎教頭の転校説が流れた事から23日3年生77人が登校拒否による留任運動を開始した。

25日4年生(本科21回87名)62名も同調し、教員異動の真相究明、舎監更迭の理由、校長不信任などを含む12カ条の質問状と血判の退学届を校長に提出

この間、高畠亀太郎県議、中平常太郎町議らが調停に奔走した。
県視学が来た28日、首謀者ともくされた2人は諭旨退学、他のスト参加全生徒は停学処分、しかし、停学処分の生徒全員が諭旨退学血判状を提出したため6月1日、県学務課長も来て翌2日の父兄大会に出席、大会決定により3日、父兄は生徒同伴で校長に陳謝、同日、停学処分は解除され、生徒は4日から登校した。

「愛媛県百科大辞典」

これが事件のあらましである。
実に12日間の闘争。この時期男子の学校においても同種の闘争は見られず、まさに壮挙と言ってよい。



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「作樂」宇和島高等女学校の同窓会「作樂會」の機関誌の創刊号(村田蔵六氏提供)
現在、原本は宇和島南中等学校に保管されている

この貴重な資料の出現により、ストライキを決行した学年が本科22回(大正12年卒業)であり、77名全員の氏名を知ることができた。
さらに上記の教職員の名簿も記載されていた。


事件の詳細

中矢校長は検定出の人であり、大卒や師範卒の教員を遠ざけ、自分と同じ境遇の検定出の教員を集めるなど露骨な人事が目立った。これに生徒が反発したと言うのが事件の発端のようであった。

生徒らは夜間、各組に分かれ、市内の有力者の家を訪問して自らの考えを話して理解を求めた。この行動力がストライキを実質成功に導いたと言える。





事件の終息




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1週間ほど後、有力者が中に入り事件は終息した

公会堂で父兄が同伴で学校側に謝罪する会が開かれた。父兄代表、赤松泰包、山村豊次郎、太宰孫九


そしてその後、中矢校長は転任となり、師範学校出の教師も帰ってきた。結果的に生徒の要望はほぼかなえられる結果となった。

以下、昭和30年の地方紙に掲載された、当時の77名の生徒の一人のお話

あれは大正10年、第一学期の終わりごろでした。

宇高女(宇和島高等女学校、現・宇和島南中学校)がまだ桜町にあった頃です。(現在の市立病院・記念碑あり)当時の校長さんは中矢と言う人でした。ところがその中矢さんが検定出の人だったためか、大学、高等師範の出身の人々を転勤させて、検定出の人を入れてゆくので私たちはこのやり方を非常に不満に思っていました。

たまたま科学の三好という先生が転任になることを知り、今までの事もあるので私たち生徒は三好先生の留任運動をはじめたのです。これが導火線となって遂にストライキにまで発展していったのです。

私たちは「この学校を大改革しなければならぬ、そのために私たちが犠牲になっても仕方がない」という悲壮なまでの決心をしてこの運動をはじめました。

中心は私たち3年生でリーダーは中平さんさん(中平市長の娘さん)でした。そしてまず私たちの気持ちを書いた嘆願書をつくりましたが、それには共鳴者の血判を押すという騒ぎですよ。もっとも指を切ると痛いので指を糸で縛って針でついて血を出しましたが、それでも皆「痛い痛い」と顔をしかめながら血判状を作りましたよ。

また夜は、皆が自宅や寄宿舎を抜け出して4,5人グループをつくり、市内の名士と言われる人々を廻って我々の真意を話して理解を求めたものでした。

提灯をつけてあちこち歩きまわった事などが昨日のようにまざまざ思い出されます。高畠亀太郎さん、樋口虎若さんらの家を廻りましたが、父兄の有力者だった中原渉将軍の家に行った連中は「三尺下がって師の影を踏まず」と言う例えを知っているだろう生徒の分際で先生に楯突くとは以ての外だ」と大説教を受けほうほうの態で逃げ帰った組もありました。

私たちはストライキ中、裁縫室に立てこもっていろいろ密儀をこらしていましたが、一方先生方は、連日職員会議で大変な騒ぎでした。
私たちの主任だった某先生等あがってしまい、うろうろしており、生徒が肩を叩いて「大したことはやらないからあわてることはないですよ」と励まされる一コマもありました。

一週間ばかりストライキを続けた頃、父兄の有力者たちが中に入り、ようやく解決しました。
そして私たちの行動については、動機は美しいが、その方法は学生らしくないという事で、一週間乃至三週間の謹慎になりました。私も2週間の謹慎になりましたが、自分が悪い事をしたという気にはなれませんでした。私だけでなく皆同じようだったらしく、処罰されたというジメジメした気持ちは持ってなかったようです。

解決後のある日、市役所横の公会堂(戦災で焼失)で父兄と生徒が集まって学校側に謝罪する会が開かれました。赤松泰包さん、山村豊次郎さん、太宰孫九さんらが父兄代表になって学校側に謝りました。

女学校のストライキと言えば珍しく、この事件は社会から大きく注目されましたこの事件は文部省をも動かしたようです。

騒ぎが収まってほどなく、中矢校長は、県の視学に転任となりそして翌年の春には高等師範出の先生や上野音楽学校出の先生が次々とお出でになり、結果的には私たちの要望はほとんどかなえられました。

あの頃のクラスメートはもうおばあちゃんになってしまいましたが、それでも時折開く同窓会では皆若いあの頃にかえってはしゃいでいますよ。

布水尾さん、布川すみれさん、太宰文江さんら皆あの頃の闘士でしたからね(笑)

山口国子さんのお話より




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プロフィール

まーきみ。

四国の片隅で「気功的な整体施術」しています。
世界で一つだけの、ココロとカラダが喜ぶ究極のリラクゼーション&トータルヘルスを目指して。
家内はフラワーエッセンスとヒーリング、ヒプノセラピーなどやっています。
夫婦で力を合わせて

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