
本川内
薬師谷に至る道

ここを左折

この奥に、「世直り様」の祠があるらしい。

見えてきた

「番城校区の史跡と伝説」番城公民館によると
「本川内部落にはいって行くと、左側に最初に見える谷がある。
その谷を少し入った右の石垣の上に小さい祠が建っている。
これが世直り様である。」
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祠と呼ぶには大きい

石垣だけは古そうな

この祠の中に花崗岩の塚石が祀ってある。これは河内(薬師谷、並松、川内、本川内)の庄屋三好四郎右衛門ら七人を祭った墓であると伝えられている。
初代藩主伊達秀宗は明暦3年(1657)7月27日に隠居して三男宗利があとを継いだ。
同年8月16日に五男宗純には吉田三万石を分知して与えた。
これによって宇和島藩は、七万石となり、財政的にも困難になった。そこで時の郡奉行八十島治右衛門を検地頭取に任じ、新開墾地の脱税を挙げると共に、検地を行って財政の回復を図ることとした。
八十島は漢文10年(1670)に、検地竿※三尺(ママ)三寸(約1,9メートル)を、六尺(約1,8メートル)に改めて、検地を行おうとした。
(※作者註・六尺の誤りと思われる)
藩内の農民は増税を予想して反対した。
八十島は先ず、河内から検地を実施しようとしたが※川内の庄屋三好四郎右衛門は、領内20か村の惣代となって農民の為一身を捨ててその不当に抗議した。
(作者註、河内)
八十島治右衛門は、三好ら七人(本人、妻、長男、次男、女二人、下男一人)を斬り検地を実施した。
その後八十島は検地強行の責任を取って引退、家財を売って、その金で大蔵経を買い求めてこれを金剛山正眼寺(大隆寺)に奉納したという。八十島は元禄2年(1689)2月7日に没し、金剛山大隆寺に墓がある。
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香炉がある

三の文字



この先、本川内集会所がある。

ささき整体施術院
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