部落申合規約録・抜粋(戎山)

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部落申合規約録  大正拾弐年元旦


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部落申合規約録
旧来の陋習悪弊を打破し改良進歩を計り面目一新するの目的を以て左の規約を定む

戎山住民は各自一家繁栄を計り名誉を重んじると共に当部落を一大家族と心得一致協同和親の美風を作興する事
若し不幸にして自活し難き貧困者ある時は救助する事



他人の名誉を重んずる事
些細なることは争論せぬ事
若し事故生じたる時は区長議員保安会役員の公平無私なる仲裁に任す事
重大ならざる限り妄りに法廷に争わざる事
区内全般の幸福を進め利益となるべき事は従い個人として不便不利ありともこれを忍ぶべき事


当区内に於いて協議決定したる事は服従の義務あるものとす
選挙権は公民に与えられたる権利なれば国民の一大義務と心得、決して棄権せぬ事
村会議員、県会議員、衆議院議員等の選挙
学校教育を助長発達せしむる事


国家の祝祭日は国旗を揚げ特に三大節(元旦、紀元節、天長節)は休業し学校に参集して御影を拝する事
時間は正しく守る事。凡て集合の場合、遅刻せぬこと。協議の際一人発言中は勝手に話さぬ事。 正当の事由なく不参せしものに科怠金を課す。
十一
不幸の手伝いは哀悼の心より行うべき事



十二
婚礼年賀その他祝賀費用を節し其の一部を区内公共事業積立金に充つる事。

十三
区長議員学務委員等の凡て役員の選挙は身分を問わず人材を採用する事



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昭和29年の新聞記事

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施術料金 1時間 3,500円

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食肉センターの謎

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来村川(向かって右)と神田川(左)に囲まれた一角に「食肉センター」があった。

2011年には、もう稼働していなかった。いつ辞めたのか、不明。

1990年頃は、たまに豚が鳴いていたのが聞こえた。



明治43年

明治43年頃の地図には、元結掛に「宇和島屠牛場」とある。
現在地はまだ埋め立てられていない。



大正11年大地図da

大正11年の地図も同様


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赤印の所に、河口付近に設置される「水準基標」があった。

その後埋め立てられた様子が分かる。




大正14年宇和島市街図(表)30b

大正14年の地図




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昭和6年 「屠牛場」が新田町河口付近に明記されている。





昭和12年

昭和12年


昭和10年



昭和29年

昭和29年

今までより、埋め立てられて広がったような?

川渕孵化場






昭和60年a


昭和60年

鶏舎と食肉センター

この一連の地図から、埋め立てが拡大され。そのため食肉センターが移動したのではないかと想像する。



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南校から見た様子 2011年

スクリーンショット (702)
現在は解体されている


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解体工事

2011年10月





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石積みの様子で、埋め立てられた年代が違う事が想像される


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この船溜まりのような窪みの寸法も変わったのかもしれないが、地図からは確定できなかった。

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食肉センター


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水準基標は、この塀の内側にあったことは、関係者の話から明らかである。




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石碑が見える


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解体後は、海辺に移されたようだ


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供養塔


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昭和2年8月建立

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寄付者の名前

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宇和島市来村屠場組合
宇和島缶詰株式会社
中山萬太郎(※紅屋商店 牛肉商 袋町)
浅井新吾(※牛馬(飼育?)来村)
坂本寅吉
眞崎?商会
石口大吉(※畜産業 第一回愛媛県牛匹共進会4等賞 八幡村)
松下●吉
宮﨑定治
兵頭正義
毛?利留吉
中村福松
宇和伝缶詰製造所
松浦藤吉
河野熊吉

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請負 藤原秀一郎
石工 畔晋吉

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企画者

宇和島缶詰株式會社 林曻
愛媛縣衛生技師   大野時馬
宇和島屠場書記兼管守 岸壽明







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大正ー昭和10年代の宇和島市地図と変遷

大正11年の地図


大正11年地図カラー

大正11年地図カラーa大正11年地図カラーc

大正11年地図カラーb大正11年地図カラーd

サムネイル



泉屋新田
朝日町という名称は無い。泉屋新田と言った。

12年くらいから朝日町と称した。1-6丁目があった。

雪輪サイダー
大正綿布
火力発電所
製氷所
などの会社名が見える。
朝日町本通は直通道路となっている。

この年、皇太子殿下がこの道を通った。
樺崎のおあがり場から船大工町の新大橋まで

まだ「朝日運河」はありません。

大正11-13年頃、内港を浚渫してその土砂で埋め立てて朝日町の形が出来た




和霊神社周辺
宇和島駅の次の駅は「下村駅」近くに三島神社があった
上に「第二青年会館」という名称が見える

丸今綿布は今の城北中学校の所

この時も入らずの森を斬る計画があったけど業者が祟りを恐れて切る人がいなかったらしい。

昭和60年代、城北中学校新築のおり、市民から陳情のあった入らずの森の保存は市議会が否決したので、何時切られてもおかしくない状態である。
和霊神社南側に通称「桜筋」と花街があった。東雲なども最初はここで開業した。それより鶴島町東通りに通じる橋が出来た。榎橋と言う名前だったが通称は「芸者橋」と呼ばれた。
北新橋の一つ上流の名前のついてない橋である。

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四十番札所 龍光院、とあるが「四十番札所観自在寺奥の院」が正しいと思われる。

「日本酒類会社」とあるのは、今のJAあたりかな?

須賀川は付け変る前、今の市役所辺りに河口があった
大正11年大地図a大正11年大地図c
大正11年大地図b大正11年大地図d

サムネイル



大正十四年の宇和島市の地図

大正14年宇和島市街図(表)30


日振新田、小笠原新田、朝日町に「養魚場」が見える。

何を飼っていたのか?

この時期、食用ガエル(ウシガエル)を養殖してたという話を聞いた。
今でも帰化したウシガエルやアメリカザリガニを見ることが出来る。

朝日運河はまだできて無いが、この頃出来た。前方の海を埋め立てしている。


大正14年宇和島市街図(表hasi)


大正14年宇和島市街図(ウラ)30
大正十四年地図裏面広告
石丸製綿所 新京にも工場があったのか?


大正14年宇和島市街図(表)30a大正14年宇和島市街図(表)30c
大正14年宇和島市街図(表)30b大正14年宇和島市街図(表)30d

サムネイル





昭和三年の地図

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朝日運河が表示されている

埋め立て地、予定地も

内港の浚渫予定も

県道も太字で表されている。現在の国道56とは異なる



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現在の国道と当時の県道

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昭和29年の新聞記事

県道がいつ、どのような経路で現在の国道56号に変って行ったのか、細かいことは不明であるが、当時の新聞に「船大工町から追手に至る第二種国道を、同じく船大工町から栄町を経て丸之内和霊神社に変更するよう中平市長が運動した、とあり変更の様子を知ることが出来る。

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昭和3年地図ab昭和3年地図ad

サムネイル






昭和6年の宇和島市の地図


00-昭和6年 (01)







00-昭和6年 (07)
その裏面


00-昭和6年 (08)


石崎本店
本町3

堀部本店
堅新町(たつしんまち)

猿のいる店
豊岡洋服店
(鶴島町中通)

宇和島運輸
堅新町



00-昭和6年 (10)

鹽屋本店
舟大工町

河野本店
本町

御旅館 蔦屋
丸之内


サムネイル(詳細拡大)

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昭和8年の宇和島地図
昭和8年地図(小・表)

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サムネイル


裏面
昭和8年地図(小・ウラ)


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昭和8年地図(小・ウラ)d














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昭和8年地図


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昭和8年地図b昭和8年地図d
サムネイル

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00-昭和8年 (03)00-昭和8年 (02)


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昭和10年の地図

昭和10年


昭和10年a昭和10年c
昭和10年b昭和10年d









付け替えた後の、須賀川の埋め立て途中の様子が図面に明記されている。
そこに縦断する2本の破線は、汽車道(港湾鉄道)の予定地と思われる。

その沿岸の築地の花街も描かれている。

「河身北陽を貫く」須賀川付け替えのため、河床に沈んだ花街の一部は、ここ築地に新天地を求めて移転を計画したのは昭和4年の事であった。

当時、九島橋と呼ばれた「板島橋」も明倫小学校や宇和島高等女学校の移転後の位置も描かれている



昭和12年の地図(表)

昭和12年地図(表)




日振新田の近江帆布

右上の別紙「戎山」「酒井綿布」など、他の地図にない場所や会社が書かれているのは珍しい。

主要バス路線が描かれている。
昭和12年地図(ウラ)

昭和12年地図(ウラ)

宇和島の銘菓が記されていて、菓子製造が繁華だったことをうかがわせる。

丸之内和霊神社の由緒も興味深い

第2宇和島自動車など、現在の人は知らない宇和島自動車の由来なども伺わせる時刻表も貴重な資料である。

昭和12年地図(表)a昭和12年地図(表)c

昭和12年地図(表)b昭和12年地図(表)d

サムネイル





追加

明治43年

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詳細

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戦後の地図はこちら


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41年の宇和島市町名改称



町名改称の理由

戦災で市街の70%を焼失した宇和島市の戦災復興土地区画整理事業は昭和21年から31年の間に実施された(減歩率15%)
昭和29年、換地指定終了
町名改称は、その区画整理の総仕上げと推察する

新聞記事によると、町名地番改正は、28年から2年半ほどかけて手がけたことがあるが問題が複雑なので中止していた。とある

昭和40年7月22日学識経験者などによる「宇和島市住居表示整備審議会」設立

街区方式(町界は公道、河川、水路、鉄道などの恒久構造物)
境界は、公道河川水路などの東または南の側線
町名は、歴史上由緒のあるもの、親しみやすいもの、語調の良いもの、を用いる。当用漢字を用いる。丁目を付けるのにも4,5丁目にとどめる。

地番の整理については、街区方式による奇遇連続千鳥式、結合式町割地番(主要道だけでなく補助道路なども境界線とする)街区の東を起点とした右回り地番。公共施設地番は、国、県、市別の地番とする。

無題      2021-12-19 17.31.58



宇和島市50町を37町(77街区)
姿を消す旧町名23
一宮下、船大工町、向新町、横新町、竪新町(たてしんまち)、龍華前、龍光院前、北町、本町、裡町、袋町、柳町、追手通、中町、大工町、樽屋町、大榎通、鋸町、大石町、鎌原町、堀端通、富澤町、薬研堀など

新町名16
本町追手、栄町港、文京町、京町、宇和津町、大宮町、泉町、御幸町、錦町、中央町、新町、和霊元町、天赦公園、和霊公園、堀端町など


旧町名については、下記を参照

日本商工業別詳細図 昭和29年


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昭和40年の新聞記事
町名改称の記事が初めて出たのは40年の7月13日

前述のとおり、町名地番改正は、28年から2年半ほどかけて手がけたことがあるが問題が複雑なので中止していた。

1,須賀川ー神田川で囲まれた市内中心部で実施。続いて伊吹町、大浦、妙典寺など周辺で実施。町名は原則として現在のものを残す。

2,丸之内のように1区から9区迄ある広い地域は新しい町名を付ける方針

3,正式は朝日町だが「弁天町」「寿町」「築地」など、通称が親しまれているものについては正式な町名とする。

4,中心部にありながら「裡町」という町名は地元の意向で廃止する。

町名の由緒

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着手は先ず、長い朝日町から

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40年10月   第三回住居表示整備審議会

①住吉町に朝日町6丁目を編入する
②朝日町は、現在の2丁目から5丁目までとなり、須賀通の一部が編入される。
③北新町 須賀通1、2区、 朝日町1丁目 船大工町、鶴島町の一部が結合して新町名となる(御幸町)
④新町名の決定は住民アンケートを参考にす



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昭和40年11月
御幸町(北新町、須賀通一、二区、朝日町一丁目、船大工町、鶴島町の一部)は下記の候補の中から住民投票で選ばれた。(天神校区連合自治会長大川保次宅)
御幸町(120)、春日町(27)大宮町(19)新京町(19)、大黒町(10)無効1
御幸町成立で、朝日町1丁目は消滅し、6丁目は住吉町に編入されることにより消滅。朝日町は、2、3、4、5丁目が残った。

船大工町も消滅した。(御幸町、鶴島町、恵美須町)


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御幸町に編入された「旧、朝日町一丁目」


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これより和霊公園まで、映画館(キリン館)を含む商店街歓楽街が形成されている。
今は医院が多いかな。


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このように、丁目は順送りになる



昭和6年

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現在の朝日町には、旧、須賀通も含まれる




41年

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3月和霊町
投票で和霊元町(183)和霊東(79)やしろ町(38)和霊本町(37)

決定したのは
和霊公園 
和霊元町 
和霊町東通1~4丁目 
和霊中町1~3丁目



 


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41年3月30日、宇和島市住居表示(整備)審議会。区画整理課
宇和津校区
宇和津校区12町を5町に整備する。そのうち龍華前、一宮下、鋸町の一部、野川一区を統合して「宇和津町」と言う新町名を付ける

 


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愛宕町 
大工町、樽屋町、愛宕町、大榎通、裡町の一部、はアンケートの結果
一番町(114)、城東町(59)、花園町(54)、平和町(50)、昭和町(なし)
この中から決めると新聞に書かれてあったが、以後その記事は見当たらないので何らかの理由で(愛宕町1,2丁目)になったようだ。
 



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5月1日

北町1、2、3、4区 丸穂1,2区の町内が「大宮町」「辰野町」「みずほ町」「城東町」「望月町」の中から新町名を選ぶ
大宮町に決定
今も市民の中には大宮町は大宮庫吉にちなんだ名前だと言う人が多いが、どこにもその記述はない。
丸穂3-8区及び龍光院前は「丸穂町」「辰野町」「若宮町」「新川町」「元町」の中から選ぶ。
丸穂町に決定










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41年7月5日
「中央町」が生まれる
本町3,4 袋町1,2 裡町3,4 丸の内1,2
(木藤時計店から、いえき洋装店)
投票結果 中央町387 本町82

愛媛相互銀行からの新橋通内は「新町」
 




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9月8日

鶴島町駅前通、向新町、龍光院前

錦町57票 弥生町44票

錦町に決定


 

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9月20日
住居表示整備審議会が50町を37町77街区に整理して答申
(新聞記事の33は誤植と思われる)



9月27日、新町名が発表される。

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ここで、以下の2町名をめぐって、当該住民から反対運動が起こる。

当時の新聞のコラムには


『議会のやり方は表向きは民意を尊重すると言ってアンケートなど取っているが、その実、住民の意向を全く無視して審議会幹部だけで独断的に処理してしまったのではないか。そうでなかったら、今日になってかくも多勢の町民が異議を唱え反対陳情するはずがないではないか。これは飽くまでも地元町民多数の意向を尊重して愚劣極まりる街区整理や馬鹿々々しい新町名を付ける事を取りやめるべきである。(中略)地元住民の意向を無視して勝手に町名を変えると言う事は、憲法違反と言っても良いほどの乱暴な処置と言わざるを得ない』
と言う辛辣なものであった。




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栄港町
追手本町

発表当初は「栄港町」「追手本町」と現在の町名とは逆さまであった。



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9月29日、議会最終日

「本町追手」「栄町港」

住民反対の中、議会は決定した。



その後も反対運動は激化したようだ。





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苦慮する中川市長


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11月1日より、新町名スタート

中央町、文京町生まれる
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年の瀬になっても新聞には「新町名反対」の意見が多いが、不思議なことに42年になると、そんな記事も消えていった。
すぐに忘れてしまう宇和島人の気性か?

42年春には、地元栄町港から町名変更を公約に上げた候補者が市会議員に当選したが、町名は変わらなかった。

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問題は校区の変更


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飛んで43年

今尚強硬な栄町港と、聊か温度差がある本町追手の世論は落ち着いてきた印象だ

結局市の区画整理課の言う「二町名一括変更」に足並みがそろわなくなったのが、そのままになった原因かなと思う。




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今はそんなことがあったのを知る人も、少なくなっている

少なくとも私は聞いたことは無かった。

雨止んで人、傘を忘れると思うします


おわり


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おまけ

通称と思ってた「柳町」が旧町名に出ていた。

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南豫護国神社 2022

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南豫護国神社に行きました。


南豫護国神社 大正4年4月


大正2年に宇和島藩主四柱を祀り「鶴島神社」と称したのが創始である。昭和20年には戦火により社殿以下主要な建物を焼失し、復興に際しては、西南の役以降に戦没した宇和島市・北宇和郡・南宇和郡の英霊七千余柱を合祀し、昭和30年に「南予護国神社」と改称した。
宇和島懐かしの写真集より


年代がいささか矛盾するが、鶴島神社の石柱を再利用したのだろうと思う。

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昭和6年の地図には鶴島神社

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消失前の鶴島神社


鶴島神社
丸之内城山の腰旧日吉神社を改修して大正三年四月創営の工を完了したり其の規模は河内の別格官幣四条畷(なわて)神社の結構を採る南予唯一の建築なり、祭神は宇和島藩祖伊達秀宗、五代村侯、八代宗城三公を齋祀し県社に列し例祭は藩祖入国の記念日を充つ
南豫史(久保盛丸著)

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鶴島公園


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幕末の地図には「山王神社」

余談だが、その別当は神宮寺だったらしい。

神宮寺(宇和島市笹町)


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側面に消した跡がある


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11年ぶりにこの神社を参拝した

南豫護国神社の石像物


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幼稚園の時卒園記念にここで撮影した

当時とは石段が狭くなったのは参篭所など建設したり、神社修復費用の為土地を売却したためらしい。

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大改修記念碑


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狛犬


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東宮殿下御野立所

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大正11年

東宮殿下御巡遊の時、当所に於いて御慰物台覧アラセシ

神苑にて台覧があったという記録がある



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三功臣の碑

おや、手水鉢の屋根が倒れている


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大和田健樹の歌碑も倒れてしまっている


10年前は建っていたのに残念だ



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色々経緯のある碑(38年)





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参篭所


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倉庫?




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二の鳥居


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社務所 昭和34年新築


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拝殿

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ニューギニア戦没者の碑


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大正三年四月十五日

男爵 澁澤栄一


大阪天満橋西詰

石工 川島三平


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吽行







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阿行





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土俵がある



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宇和島の有名人の名前がある


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一の鳥居の奉納は

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大正三年四月一五日

正三位侯爵 伊達宗陳
 侯爵夫人 伊達孝子


澁澤栄一の狛犬と同じ日だ

当然話し合って決めたものと思われる

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