戎山の歴史 2 大正13年~昭和6年

同年二月の総会において、戎山区民の名前が初めて出る。




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大正13年4月5日総会


8月28日

保手橋掛け替えに付き、酒代は〇三円也とし

一行解読不明


 

御台場沖合埋立地に舟焼場に認許を出願する事

費用は共有金中を(使用)する事


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お台場と言い伝えられるところ(作者註)


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浜田海産あたりか?



 

10月27日

区長、副区長選挙す

 区長 古島小太郎 當

副区長 鹿島千松 當


12月2日

林武市、宇和島市へ転籍
部落共有金半分を割り戻す




大正14年1月25日

部落総会を開き職員住宅〇〇に関し協議し敷地買入に議決す

 

2月14日

部落対(二名の名称伏せる)との絶交に付部落会を開き村長及び保手、坂下津、有志立会の上協議し仲裁人に一任し和解となる

 

保安会幹事 河野國太郎 

仝 評議員 木下音松

 仝 仝  吉良寅平

右同日より就任す

 

 

4月8日

右、同日より就任す

部落等級下調


渡辺良正 河野國太郎


片岡久吉


鹿島千松 大塚勇藏


古島小太郎


木下音松 藤堂熊吉(熊蔵の誤り)


吉良寅平

鹿島定治郎 浜田初太郎 古島十次郎 浜田久吉


松広弥三郎 堀田幸助 早川武助 


河野豊次郎


早川トメ 新戸主鹿島源次郎 八月一日(ほづみ)類太郎


益田繁助


河野ロク



2023-04-18 22.26.37

4月28日 奥南橋新設寄付

2円31銭

21戸、一戸11銭


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坂下津小学校の話題が登場


7月20日

坂下津学校教員住宅(敷地に関し) 部落総会を催し総額6割及び保手、戎山部落が宇和島市合併し通学廃止と(なる)時、払い金前部を返金するの書(類)を提出すれば土地買入を承認する事

部落は不要なる住宅をは〇なきものと見

〇〇〇際し校庭へ建築する事を望む

8月11日

部落会を催し国勢調査及び紫〇株式に関し協議し25円二株を部落より申し込む事決定した

 



11月13日

村会議員予備選挙

7点 河野國太郎

4点 大塚勇藏

3点 古島小太郎

12月16日

部落総会に際し区長早川武助、吉良寅平満期となり

新任区長 浜田久吉 鹿島定次郎

右当選す

 

12月16日

衛生組長及び副組改選に付

藤堂熊吉(熊蔵の誤り)

堀田幸助

鹿島定治郎

満期となる

 

信任衛生組長

大塚勇藏

副組長

古島十次郎

松広弥三郎

 

12月31日

部落会開き左記事故を協議す

前区長隠退に付き藤堂熊蔵を改選す


(大正15年)5月12日

 

坂下津小学校教員住宅買入に付その代価一戸分3円20銭づつ部落共有金に支払へり(但し共有金は永久に取切にする事)

青年団夜警賃に〇一戸30銭づつ出金せり



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大正15年11月

「松山連隊秋季機動演習の為宇和島へ出張の際三島村広見川へ自動車転落の際死亡重傷せられし辻本軍曹他3名御見舞金として一戸に付6銭6厘20戸分1円32銭集めたり」(カナは平仮名表記に修正)


皮てんぷらのエッセイに
大正15年11月5日に、小松の通称「保木の坂」と言う難所で、陸軍第11師団の機動演習が行われ、折からの大雨も災いして、貨物自動車が広見川の岩盤に14メートル落下、軍曹1名、伍長勤務上等兵1名、東宇和郡出身御用商人1名が死亡、5名の重軽傷者を出したとあった。

と、ある。
しかし、軍の機密ゆえか、一切の公文書にはその記録は見当たらないと言う。

戎山部落協議録 1 広見川転落事故への見舞金

 

昭和2年1月4日

南予利用飯(販)売組合の件に付協議せり区長鹿島千松、福(副)区長早川武助坂下津学校教員住宅件に付、前一戸3円20銭づつ

納めたる件、前20戸〇〇18戸納めたるに付、二戸不足に付此度教員住宅料原価の返書をとるなれば二戸分納める事に決定その時納めたる人名左の如し

 

形岡久吉 濱田久吉 大塚勇藏 木下音松 鹿島千松 古島十次郎 古島小太郎 渡辺 藤堂熊太郎(熊蔵の誤り) 早川武助 鹿島定治郎 鹿島源太郎 松廣弥三郎 濱野初太郎 早川トメ 益田繁助 八月一日類太郎 河野ロク

山本善四郎 昭和2年1月より戎山部落に加入したる事

 

大正14年15年両年度除隊兵39名に支給すべき軍服一戸に付12銭8厘20戸分2円56銭残金4銭

 

15年11月松山連隊秋季機動演習の為宇和島へ出張の際三島村広見川へ自動車転落の際死亡重傷せられし辻本軍曹他3名御見舞金として一戸に付6銭6厘20戸分1円32銭集めたり

 

部名中地祝2銭納

 

昭和23月吉日

70円    机及び腰掛各10

3円     (5字不明

3円20銭  焼板

1円   (7文字不明

50銭  天井(5文字不明

1円   釘一式

5円   大工2人役

合計81円70銭一戸に付1円当り4月1日坂下津納入し候也

 

等級下調

山本喜四郎(善四郎の誤り?) 大塚勇藏 形岡久吉  河野國太郎 

渡辺クマ 古島小太郎 鹿島千松 藤堂熊蔵 吉良寅平 古島十次郎 濱田久吉 木下音松  
鹿島定治郎 松廣弥三郎 濱野初太郎 早川トメ 八月一日類太郎 益田繁助 早川武助

漁業下調  河野國太郎



右の通り也

5月15日

戎山部落会儀致したく候 学校先生内家協議 宅粗家 売る事と

 

7月28日

協議には誓約の事(記)し有候に付まず中(心)とに角 三浦三太郎氏の話の上立てる事と

 

10月1日

馬越運河に開設に関し調印せし氏名左の如し

 

形岡久吉 早川武助 濱田久吉 吉良寅平 松広藤吉(弥三郎?) 藤堂熊吉 (熊蔵?)

古島小太郎 木下音松 大塚勇藏 鹿島千松 鹿島源次郎

 

昭和2年12月2日より

部落会を開き左記の事故(事項?)を協議す

新衛生組長 山本善四郎殿 

   副長 河野國太郎殿

   副長 益田繁助殿

 

月日不詳

部落会を開き左記通り事故を協議す

区長 山本善四郎

 

 

昭和3年1月1日

益田栄次昭和2年10月より戎山部落加入したる事

 

1月28日

等級下調

山本善四郎 大塚勇藏 形岡久吉 河野國太郎 古島小太郎

鹿島千松 藤堂熊蔵 渡辺クマ 吉良寅平 古島十治郎 

濱田久吉 早川武助 松廣弥三郎 鹿島定治郎 木下音松

八月一日類太郎 鹿島源太郎 早川トメ 河野ロク 益田繁助

益田英治

漁業下調  河野國太郎

 



宇和島市との合併協議始まる

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昭和3年11月

部落市合併問題の為集会を開き協議し結果その解詰(解決?)に付、交渉委員として、時の正副区長、大塚勇藏議員 河野國太郎 古島小太郎 藤堂熊蔵に決定す

 
上記の事が宇和島市誌と山村豊次郎傳にもある


スクリーンショット (4038)

スクリーンショット (4037)


戎山保手二部落が、宇和島市への九島村より分村合併問題は、陳情書提出年が「昭和二年」(山村豊次郎傳)「昭和三年」(宇和島市誌)と一年の相違がある。宇和島市誌には山村豊次郎傳から引用、とあるが、前後のつながりから「昭和三年」が正しいと思われる。
「戎山協議録」からもそれが裏付けられる


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墨で書かれていた協議録がなぜかこの年万年筆になっていて、水気を帯びて滲んでいるがペン先の跡から「昭和参年」の文字が読み取れる。


清風園について

九島村合併問題
宇和島市と九島村の合併問題は遠く其の源を昭和3年第三代山村市長時代に発している。当時問題になった合併は九島村の全村問題としてではなかったが、市と陸続きの保手、戎山の2部落が熱烈に合併希望を訴え最初は坂下津も加え三部落の部落合併であった。即ち昭和3年6月4日保手の清風園に三部落有志が会合し、市から福田助役が列席してて市の現状を説明したのに対し、三部落側は熱心に合併を希望し合併委員を挙げてこの問題を具体化すべく運動を開始したのが抑々の合併運動の皮切りであった。
山村豊次郎傳

保手清風園
度々目にした「保手清風園」と言う名前
多分あの辺だろうな~と思う
宇和島藩の桜田家のひとつ、中桜田の別荘だったらしい。
宴会や会議をする場所もあり、戎山と保手部落と宇和島市の合併協議の席だったらしい
来村川裾、保手の山の手にある高台で旧藩士桜田家の別荘があった。
現在(昭和2年)は恵美須町の岡氏の所有になっているが四季とも園内を開放して遊楽するに任せてある。
見晴らしの良い風雅な全く清風園の名に叛かぬ別天地である。園内売店では天然の生簀保手川の(筆者註・来村川河口付近の別称)三角州で獲れる鰻の料理が出来る。また一瓢を携えて行くべきところである。(宇和島大観・昭和2年発刊)

地図、間取り図、青写真・設計図、テキストの画像のようです
すべてのリアクション:
平井忠司、本田 耕一、他12人

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昭和3年11月29日

当部落仲決算 前述のとおり決定す

仲入用

(金額不明) 区長 弁当代

(金額不明) 副区長 仝

(金額不明)(役職不明)酒代

(金額不明)(役職不明)肴代

(金額不明)(役職不明)宿禮

(金額不明)(役職不明)樒御供養

(金額不明)(役職不明)不明

 

昭和4年2月14日

(3文字不明)に依り部落共有金貸付利子一ヶ月壱(割)年中壱割に改め貸付する事に決議す

 

昭和4年12月

新衛生組長決す

濱野初太郎

濱田朝吉(久吉?)

木下音松

 

12月

新任区長決す(筆者註・班長とも見える)

形岡久吉

吉良寅平

昭和4年度12月昭和(昭和5年度12月←書き足したと思われる)

当部落仲決算左の通り

 

5円也 区長 弁当代

2円50銭也 副長弁当代

2円50銭 区長酒代

1円50銭也 区長肴代

1円也      宿禮

1円也      スミ代

1円20銭也  大師樒御佛供代

2円20銭也  (4文字不明)納代

10銭也 部落地(2文字不明)

計17円也

2円也 青年酒代

 

 

昭和5年4月10日 等級下調

大塚勇藏 形岡久吉 山本増吉 河野國太郎 古島小太郎

藤堂熊蔵 古島重治郎(十次郎)吉良寅平 濱田久吉 松廣弥三郎 鹿島定治郎 鹿島千松 木下音松鹿島源太郎 早川トメ 

濱野初太郎 益田繁助 益田英治 早川武助

 

漁業下給調 三等河野國太郎

 

 

昭和6年度等級下調

 

不鮮明により省略

 

 

昭和6年4月11日夜部落総会を・・・致し、部落共有金を昭和・・元金を限りとして各人に割金を利用し分配する事決定す。



昭和6年12月

新任区長決す(筆者註・班長とも見える)

早川長七
加藤清一




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戎山の歴史 1 明治22年ー大正12年




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宇和津彦神社の摂末社の手水鉢裏の文字から


明治28年9月吉日

石工

清水辨蔵

の名前も確認されている。

この時代すでに、戎山に人が住んでいたと推定される。


さらに




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戎山の元集会所があった土地

部落の中地(共有地)である。

奥(左方)に井戸が見える


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この石仏は、浜田茂道氏(故人)の話によれば、昔井戸が枯れたときに、石仏を建立して祈るとたちどころに水が出たの言い伝えられる。
今も近在の方の供養が絶えない。



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左は大師像であるは分かる


八十八ヵ所

明治2?7年9月?

小島小太郎(古島)


河崎?大造



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明治2?7年●月3日?


戎山の歴史は、審らかでないが、石碑から明治20年代には、人が住んで集落を形成していたと思われる。

さらに、現存する埋葬許可書には、大正三年が一番古い。

現在もある馬越の墓地は戎山が管理していた。


但し、古島小太郎氏は、明治10年生まれと、ある書類に記載されているので、この年18歳と言う事になる。







2023-04-18 23.35.29

2023-04-18 22.48.22


大正12年~ 部落台帳より

「大師接待」の文字が出る。

かつては遍路に対する接待をしていたのだろうか?

昭和40年頃まで、戎山にもへんろが来ていた記憶がある

2023-04-19 21.10.02

この頃、保手橋が頻繁に出てくるようになる。修理などよくしていたようだ。

当時の来村川最下流の橋なので、戎山から宇和島市にへの陸路は必ず通らなければならなかった。

余談
藩政時代、戎山に砲台が築かれ「お台場」「玉蔵」などの地名も残り、戦後地元民が大砲の弾と思われる鉄球を掘り出したという話もある。


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次に古い資料は、この旗

若宮神社 大正9年



さて、文書として戎山にコミュニティーが確認できたのは、古い順から


00-2023-03-30 22.20.55-1


「部落台帳 大正拾年 一月起」

2023-04-06 08.56.39

その冒頭に

大正拾年壹月ヨリ

 区長 河野國太郎
副区長 大塚勇藏

と、ある。

記録に残る最初の戎山の区長である

更に宅地祖の名簿に、下記の20名の氏名が記されている(順不同)

渡辺良正

 形岡久吉

 河野國太郎

 鹿島勝太郎(仙松父)

 大塚勇藏

 古島小太郎

 木下幾松

 藤堂熊蔵

 鹿島定治郎(重利祖父)

 吉良寅兵衛

 濱野初太郎

 林熊次郎

 古島(重二郎)

 松広弥三郎

 早川武助

 浜田久吉

 堀田幸助

 益田繁助

 清水倉吉

 河野ロク

大正10年

学校へ送金 36円60銭 一戸割合 1円40銭


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7月25日

艦隊入港費って何?


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大正11年11月28日

一金壱円也

但し

皇太子殿下(昭和天皇)宇和島へお出迎え費用

これは大正11年11月25日に、宇和島中学校においての奉迎と思われる。




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大正12年の新任区長
大塚勇藏

副区長
藤堂熊蔵






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「部落申合規約録 大正拾弐年 一月元旦調」


部落申合規約録  大正拾弐年元旦

 

旧来の陋習悪弊を打破し改良進歩を計り面目一新するの目的を以て左の規約を定む

戎山住民は各自一家繁栄を計り名誉を重んじると共に当部落を一大家族と心得一致協同和親の美風を作興する事

若し不幸にして自活し難き貧困者ある時は救助する事

他人の名誉を重んずる事

些細なることは争論せぬ事

若し事故生じたる時は区長議員保安会役員の公平無私なる仲裁に任す事

重大ならざる限り妄りに法廷に争わざる事

区内全般の幸福を進め利益となるべき事は従い個人として不便不利ありともこれを忍ぶべき事

当区内に於いて協議決定したる事は服従の義務あるものとす

正当の理由なく違背したる者は制裁を科す

選挙権は公民に与えられたる権利なれば之を行使するは国民の一大義務と心得、決して棄権せぬ事

村会議員、県会議員、衆議院議員等の選挙

学校教育を助長発達せしむる事

国家の祝祭日は国旗を揚げ特に三大節(元旦、紀元節、天長節)は休業し学校に参集して御影を拝する事

時間は正しく守る事。凡て集合の場合、遅刻せぬこと。協議の際一人発言中は勝手に話さぬ事。 正当の事由なく不参せしものに科怠金を課す。

十一

不幸の手伝いは哀悼の心より行うべき事

炊事料理の手伝いは看督人の指揮に従う事

妄りに子供を伴い行き飲食をせしめぬ事

十二

婚礼年賀その他祝賀費用を節し其の一部を区内公共事業積立金に充つる事。

 

十三

区長議員学務委員等の凡て役員の選挙は身分を問わず人材を採用する事

十四

区内へ他より転籍者は共有金元在額(現在額)の一戸割を積立つるものとす。同月より一戸あたりの共有金の積立をなすものとす(総会により、取り消し20条挿入)

十五

共有金の規約を実行するものとす。規約は共有金台帳明記してあるを以て略す

十六

役員選挙は代書せざる事

 

(十七無し)

 

十八

部落戸主集会には男戸主、女戸主の別なく集合するものとす。

十九

協議録、部落台帳、申合規約録、共有金台帳を作成し置き永く保存するものとす

各項は大正十二年一月一日より実行するものなり。

廿

一四条他より転籍者は共有金元在額の一戸当を積立つる事あるを七歩と改正する事

若し区内民をして当区内へ不都合もなく、他へ転籍するものは一戸割の半額を割戻す事

廿一

他部落民にして当村居留一ヶ月以上滞在者にして町村長の身元証明書持参して尚、前科なき者にあらざれば絶対世活(※生活)せぬ事



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「部落協議録 大正拾弐年一月元旦調」

部落協議録に拠れば、大正12年1月元旦に総会協議、



部落台帳、申合規約協議録共有金台帳を作成し永代保存をするものとす

共有金規約中第六条七条の二か条を取り消し第十九条を挿入の事

部落申合規約中第十四条を取り消し、第二十条を挿入の事

 

宇和島市合併に係し委員五名を置く

渡邊良正 古島小太郎 河野國太郎 藤堂熊蔵 大塚勇藏

 

部落申合規約第二十一条挿入の事

 

〇〇(人名省略)寄留入村し件

寄留先◇◇方、〇〇家中一人も前科犯なきものなれば部落申合規約を実行するなれば〇寄留を許すこと

(しか)も町村長証明書持参の事

共有金管理は大正十二年より古島小太郎就任決定



この時期、必要な規約、台帳を作成し、コミュニティーとして体裁を整えたのは、当時所属していた九島村から分離して、宇和島市への編入を目指していたことが伺われる。

以下、「山村豊次郎傳」から引用


宇和島市と九島村の合併問題はその源を昭和3年第3代山村市長時代に発している。

当時問題になった合併は九島村の全村問題としてではなかったが市と陸続きの保手、戎山の2部落が熱烈に合併希望を訴え最初は坂下津も加わって3部落の部落合併であった。

すなわち昭和3年6月4日、保手の清風園に3部落有志が会合し、市から福田助役が列席して市の現状を説明したのに対し、3部落側は熱心に合併を希望し合併委員を挙げてこの問題を具体化すべく運動を開始したのが、そもそも合併運動の皮切りであった。

然るにその後如何なる理由によったのか、3部落の内坂下津は次の合併陳情書に参加していないところを見ると脱退したのであろう。



陳情書



「吾々二部落は、宇和島市との合併を希望し、これを為さずに非ざれば、吾が部落の向上発展は期せども望めざるの現状にあり宇和支庁当局においても、吾らの苦衷を諒察せられ一日も早くこの問題を解決する様御取計いあらんことを望む。右連署捺印の上陳情候成」



昭和2年10月16日



合併委員長 梶原計國


合併委員 戎山

九島村村議会議員、河野國太郎  戎山区長、鹿島千松  副区長、早川武助

区民、小島(ママ・古島)小太郎  同、大塚勇蔵  同、藤堂熊吉(ママ・熊蔵)  



合併委員 保手

区長、浜田清一  副区長、山本善平  区民、浅川三治  同、片山圓太郎 同、梶原計國  同、三好國三郎



宇和支庁長 高橋作一郎殿



理由書

我々二部落の合併は多年の懸案にして既に大正12年には保手戎山において村当局に稟申書を提出せし次第なるもそのまま放任され今日に至るは実に遺憾とする所なり。

これを地勢状より観るも僅かに一町に過ぎざる河川によりて区分され種々行政上の便宜に於いて九島村役場に行くより宇和島市役所に行く事が簡易にして便利なるは明らかである。

最も注意すべきは近き将来に来村川は坂下津へ貫流すべく付け替えらるると聞く(計画だけで終わったようである。地元の古老はその話しを知っている人が多い)

斯くなる時は当然に宇和島市と接続するは明らかにして道路橋梁なども完全を期し時代の要求は副わねばならぬ。然るに現在のままに放任する時は百年一日の如くこの部落の発展を望む事は不可能である。

事に教育に於いては狭小なる学校において教育を施すは子女の幸福に非ずと本年4月以降小学児童の総ては宇和島市の第二小学校(丸之内JT辺りにあった。後の鶴島小学校)委託教授をなしつつある現状にしてこれ既に行政上合併したるも同様なり。





中略



次に衛生面において考えうるも、この2部落に於いては病人患者の発生したる場合といえども村医を招聘することは殆どなく総て宇和島市の医師に診察を受くる有様にして多額の村費を支出しつつある村立病院も村医も我々2部落民にとりては有名無実と言う現状にあり



上述の如く地勢状より自治行政上より、教育衛生上より何れの観点よりするも我が部落の向上発展を期し部落民の利便幸福を計るの道は有利なる条件のもとに、
宇和島市に合併して市の大計の傘下に入るを待つあるのみなれば宇和支庁においても慎重審議以って大局に注ぎ我々部落の意の存する所を諒察せられ今秋の盛典
たる御大典記念として速やかに解決せらるる様、ご尽力あらんことを懇願して止まざるなり。

「山村豊次郎傅」引用


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同年二月の総会において、戎山区民の名前が初めて出る。




00-2023-03-30 22.26.57




一月十七日会議

自治会評議員に河野國太郎就任決定

農業委員 形岡久吉就任決定

 

二月十三日会議

保安会幹事、評議員満期に付き改選協議

幹事 大塚勇藏

評議員 藤堂熊蔵

評議員 形岡久吉





大正十二年四月総会



 渡辺良正

 形岡久吉

 河野國太郎

 鹿島勝太郎

 大塚勇藏

 古島小太郎

 木下幾松

 藤堂熊蔵

 鹿島定治郎

 吉良寅兵衛

 濱野初太郎

 林熊次郎

 古島(十次郎)

 松広弥三郎

 早川武助

 浜田久吉

 堀田幸助

 益田繁助

 早川トメ

 河野ロク

 河野豊次郎


 


8月17日総会(大正12年)

 

九島村と宇和島市との交渉の際に交渉員として渡辺良正君就任〇事

村議場に通うる区民二名

濱田久吉 益田繁助

 

9月12日総会、、、7行、解読不明

 

 

大正12年10月23日?総会

戎山役員、等級順序

上半期の通り




sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

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戦前の中等学校のポートレート

宇和島中学端艇部昭和17年頃



ゆうこりんに亡くなった叔父さんの写真を託された。

捨てるわけにもいかずさりとてずっと保管するにしても後年同じ問題にぶつかる、どうしたものかと言われ、関係者を通じて東高に相談したら、資料室があるので全部引き取ってもらえることになった。
何れも昭和17年頃と思われる


宇和島中学プール昭和17年頃
プールの写真


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他に、このようなアルバムもあった


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2018-07-03 08.40.03


2018-07-03 08.39.06


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なぜか校章が違う帽子も?

卒業アルバムでも無いようだし、なんなんだろう?と思っていたら
ある本にヒントがあった

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「私の昭和史 宇和島ふるさと交遊録」木下博民著

それによると

「商業学校では、卒業記念の集合写真のほかに、各人でプロマイドのようなやけに気取った写真を、松浦写真館あたりで写して、交換し合うのが流行した。」

その中にはサインがあるものもあったという。

他の学校の学生の写真があったのも頷ける。各自が保存したものだろう。



それは同時期に発見された、宇和島高等女学校の卒業生と思われる人の持っていたアルバムにもあった。


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流石に女子はサイン入りは無かった

これも母校である宇和島南中等学校の資料室に寄贈した。


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サクラビールと行火

某所で見つけた櫻麦酒の商標入りビン

サクラビール


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看板は八幡浜



行火

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その他









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sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

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戎山部落協議録 1 広見川転落事故への見舞金

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鬼北町小松

旧三島村


2022-05-23 22.25.57

最近図書館で借りた、愛媛新聞 夕刊うわじまの「皮てんぷら」

地元の名士がつづるエッセイ、平成元年発行

その中に鬼北町の方の作品に「自動車事故第一号」と言うエッセイを拝読すると

大正15年11月5日に、小松の通称「保木の坂」と言う難所で、陸軍第11師団の機動演習が行われ、折からの大雨も災いして、貨物自動車が広見川の岩盤に14メートル落下、軍曹1名、伍長勤務上等兵1名、東宇和郡出身御用商人1名が死亡、5名の重軽傷者を出したとあった。

以下引用
3日前から降り始めた雨は風も出て土砂降りとなり、広見川もかなり増水したようである。当時としては珍しい事で、陸軍第十一師団の機動演習が行われることとになり、松山歩兵第二十二連隊兵員千二百名の部隊が広見町(旧三島村)を通過するとの報を受けたので、地元では村役場を中心として、在郷軍人会、消防組、青年団、婦人会、及びその他の団体が協力して通貨部隊を歓迎しようとして待機していたのである。
 ところが午前十時ごろ突然、小松の通称「保木の坂」で軍の貨物自動車が転落したとの報告が三島村役場(現・地蔵味噌)へ入ったから大変である。直ちに伝令が各団体に飛び救援活動が始まった。現場は改良された現国道とは違い急な下り坂で、14mの高さから車は一回転して岩盤に叩きつけられて大破、同乗の兵員はもとより積荷は散乱、車体は井関の水面に没していた。この事故で、車で先行中の軍曹1名、伍長勤務上等兵1名、東宇和郡出身御用商人1名が下敷きとなり即死、5名が重軽傷者を負い啓発名は死傷した。事故後は軍の指揮で遺体や重軽傷者は密かに松山に送還され、車両などは在郷軍人会と消防組の手によって引き上げられ多様であるが、これをこの道路の自動車事故第一号と認識している。
引用終り

00-2022-05-23 22.18.21

そこで戎山協議録の記録の中に、それと思われる事故が記載してあった。


00-2022-05-23 22.11.06


大正15年11月
「松山連隊秋季機動演習の為宇和島へ出張の際三島村広見川へ自動車転落の際死亡重傷せられし辻本軍曹他3名御見舞金として一戸に付6銭6厘20戸分1円32銭集めたり」(カナは平仮名表記に修正)



おそらく、宇和島市、北宇和郡など幅広い自治会単位で、見舞金としての寄付が募られた事と思うが、「皮てんぷら」によると、軍の機密であったのか、当時の演習に参加した地元出身者には詳しいことは知らされず、旧村史にも何の記録も残されていないという。

詳細な演習の記録は、高畠亀太郎日記に記されている。
しかし、事故の記載はない。知らなかったとは思われず、或いは軍に機密として記録に残すことを禁じられたのかもしれない。

以下引用


大正15年11月4日(木)雨
5日(金)
(前略)
松山二十二連隊の歩兵に、善通寺の騎、工兵等の特科隊を加えたる約一個連隊以上の軍隊、演習の為行軍あり。川筋、三間方面を経て正午当市に到着。吾家のの前を隊伍を整えて続々通過し、午後三時泉屋新田市有埋立地の広場にて参列式を挙げらるるを以て、行きて観たり。軍隊は皆々市中民家に宿泊し、吾伊吹町へも三百余名割り当てられ、吾家は予ねて第一大隊本部、大隊長宿舎と定められ居たれば、夕刻夫々来着あり。二階一二畳の床に大隊長、同副官、主計の三将校を、次の八畳に下士官二名、兵二名を入れ、夜、饗応す。十時頃迄談じて、孰(いず)れも就寝せられたり。
好晴

十六日(土)
業用を為し、正午より伊達家主催の宿営将校招待会に天赦園へ行く。小泉十一師団長、継二十二連隊長等、百数十名の軍人に、市当局及び、市会議員加わりて交歓し、園遊会の催しもありて、午後三時帰宅す。今夜もわが家へ宿舎の軍人を待遇す。晴

十七日(日)
朝五時、わが家に宿泊の将校皆出発す。

各隊隊伍を整えて、孰れも卯之町方面に行進したり。
(後略)
高畠亀太郎
この年、県会議員に再選、再婚、製糸会社経営


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