大日吉神社(消失前、旧日吉村)と旧街道



2009年1月2日

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日吉夢産地


屋根に雪が積もっている。



3日まで休みだった。



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日吉神社に行く






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武左衛門一揆の碑


以前、この石碑の一つが土がついてよく見えなかったので、確かめてみた。



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掃除する少女






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宇和島市の「狩野製菓」



聞いたことがあるような?






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そうこうしてるうちに、霙が降ってきたface08




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大日吉神社 拝殿






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本殿












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本殿正面










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お正月の日吉の町並み










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山道で、スズメバチの巣らしきもの発見face08






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アップ






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旧道を走ってて大師堂発見





国道197号線を檮原方面に






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雪が深くなる










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道路沿いに公園があった











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予土国境の番所跡の復元図





ここより、100mほど高知寄りに番所跡があるらしいが、雪が積もっていて行けなかった。残念。




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安土桃山時代から




それから四月になって再訪






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このトンネル杭口の前をよぎる様に大昔の予土街道が存在した。


そのせいかどうか、このあたりに「境」と言う字が残っている。




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日向谷番所跡







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今はみかん畑になっているようだ。








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杭口左側に予土大街道の標杭がある。










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奥に続く道










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石垣が崩れた跡があるface08






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あえて崩れた跡を補修せずに、その歩いた跡で新たに道が付いて








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ずっと奥に続いている。







「遺跡」はなるべく補修せずに、そのままの方が味がある。
(安全かどうかは別にして・・だが)




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国道近くにあるH鋼と矢板を組み合わせた橋も趣があった。







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番所の標杭近くに、林道の標杭があった










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その崎に八城畑と言う地名あり。









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それより宇和島寄りに、大野ヶ原ー四国カルストに行く近道がある。





行きは標識どおりに行けば良いが・・



帰りは「宇和島方面」の案内板が無いのでよく迷った



この道の途中に「旧高研山隧道」がある。



融通座


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初冬の風物詩 タイコマンを買いに行きました。


風流やねぇ~~~face05


私が焼き上がりを待ってると、数秒遅れてお客さんが


おっちゃん「あ~(まーきみ。が買い占めたけん)後10分くらいかかるんですがー」


予約して帰っていかれた。





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オラの勝ちだな、カザマ君!face06












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私のために焼きあがっていくタイコマンたちface05








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店の前にはマンションが


このマンションが「サンシャイン」と言う名前になった由来も、後数十年したら知る人もいなくなるだろうな。




以前、タイコマンをあげたお年寄りに


「このタイコマンどこで買うたらな?」

「サンシャインの前です」

「サンシャイン言うたらどこぞ?」

「融通座のあたっとこです」

「あ~判った判った!」


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融通座



明治時代、町村制下の宇和島町は甲、乙、丙区に分かれていた。

区会議員を選び、共有財産も有していた。

そもそも、その共有財産の管理のための区会を設けていたらしい。


それぞれ「士族」「旧新町」「新町」に分かれていた。


甲区
堀端 元結掛 神田川原 薬研堀 御徒町 富沢町 桜町 広小路通 中之町 鎌原通 大榎通 賀古町 大石町 笹町
愛宕町 一宮下 鋸町 丸之内 追手通 北町 向新町 竜光院前 竜華前 須賀通


乙区
本町 樽屋町 裡町 袋町 竪新町 横新町 大工町


丙区
恵美須町 船大工町


爾後20年を経過して、中原町長の明治45年7月に、乙区より下記の区有財産を町に提供すると申し出があり議会はこれを了承した。
町制施行から20年余り、部分的共有財産管理の区制も発展的に町制に一丸となるべき時期として、乙区はここに所有財産を挙げて宇和島町の基本財産に編入する申し出をした。


土地、建物   (演劇場・追手通  公会堂・丸之内1)

株式、証書、金銀



このときの「演劇場」が戦後まで存続した「融通座」である。

この宅地建物は融通会所の整理にあたり、その財産を持って建設されたものでその維持管理費は融通会所積立金の収益から支出されていた。

公会堂は戦災で消失した。




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あと、何十年かして「ここに映画館があった」と言っても


「宇和島に映画館なんかあるかい!」

と、若者に一笑される時代が来るのだろうか。



「太平楽」


町の繁栄を期待して舞台の正面には中原町長揮毫の大額が掛けられていたと言う。

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昭和27年





田野々橋 R56 五十崎ー大洲

国道を走ってて「これは?」と思う橋を見つけました。

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国道に、平行して古い橋が?



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大洲と五十崎の境 田野々川 大洲と内子の境になっている。これがこの橋の存在を複雑にしたのか?

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詳細図



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国道から、半円を描くように道と橋が付いている。 今は閉店したがこの先に「豚太郎五十崎店」があった。




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この橋、なんて読むんだ? 川は「田野々川」と言う名前なので「たののはし」か



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竣工は開戦の年、6月。


写真を撮ってたら、前の会社から人が出てきた。



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神南レンタカー



「あんたで4人目よ」


「???」face08


「こないだも、香川の人が車停めて写真撮りよった。この橋になんかあるんかな?」



「いやー(ブログ書くようになって)写真撮りよったら、珍しい物とか謂れのある物には敏感になってな~」face03
と答えました。




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すると、この方が色々と話してくれました。 



この橋を含む道路は、私が思った通り、旧国道だったそうです。


新しいルートと橋ができた時、不要になったはずの、この橋がなぜか残ってしまって現在に至る。


当時はこの橋と、新しい国道には段差があって車は渡れないため、工事をしてもらうべく県に相談に行ったら

「そんな橋は(道路台帳)に無い」と言われたそうです。

川を挟んで大洲ー五十崎(当時)の2つの行政区が存在するため、その取り扱いに関して「三すくみ」になってしまったのか?



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橋の欄干に土盛をして舗装している。これは役場ではなく個人が私費でしたらしい。



この橋がどうしてできたか?なぜ道路台帳に載ってないか?


「新しい橋が出来た時、壊すはずが何らかの手違いで壊さずに残ったのではないか」
と、話していました。


理由として

橋を壊す経費を惜しんだ。


地元の人が残してくれと頼んだ。


あるいは、昔よくあったように、地元の人が私費で建設した橋だったのかもしれません。


古老でだれか詳しい話を知ってる人がいるかもしれません。


あるはずの無い橋が、確かに存在する。

まさに


「精霊の橋」


と呼ぶにふさわしい。


ロマンだなぁ。face05

将来拡幅工事が行われたら、この「精霊の橋」は無くなるかもしれません。face10
田野々川は、いくつかの支流と合流し大洲市新谷で矢落川となり、やがて肱川に注ぎこむ。



さらに松山寄りにこんな橋が


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かなり古い端だface08



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欄干が壊れているface08



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これはひび割れ?face08



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割れてるのか? スパンが切れてるだけなのか?




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耳戸(みみど)橋 昭和38年3月竣工





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内子 城廻地区 中山川の下流

藷壷(イモツボ)のある家 ☆

さて、ここでお約束の問題です!

子供の頃、オイタをしてママから

「そんなワルい子は〇〇〇〇に入れます!」

と叱られて

「くらいよ~せまいよ~こわいよ~」(面堂 終太郎風)

と、泣きじゃくる。場所は?



スタンダードなところでは、「押し入れ」



ところが最近、私より一回りも若い女性から違った風習があるのを聞いた。

それは

「イモツボ(藷壷)」 

いもつぼ 戎山




↑これではない





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これだ!
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最近取り壊した、築100年くらいの民家。

実際に入れられた子供がいたかどうかは別にして、それをいわれた子供は震え上がったらしい。

芋が主食だった時代、秋に取り入れた芋を翌年の春くらいまで保存した。

どの家も畳に当たるほど詰め込んだという。

それ以降から盆過ぎの芋ができるまでは、切り干し芋を使った「かんころめし」や芋の粉を使った「芋の餅」に替わる。


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左が切干、右が芋の粉(乙亥の里で購入)


戦後に建てられた家はイモツボはほとんど見られないと思います。




続きを読む

宇和島幼稚園と鶴島小学校

昭和16年生まれの顧客さんが、「わしらは家が商売しよったけん、幼稚園にやらされて・・」と言う。
「わしらが行きよった宇和島幼稚園は法圓寺にあって・・保手の友達の家から船で今の明屋と明倫小学校のところまで行って歩いて行った」

法圓寺と言えば今、立正保育園があるところだ。我々の通ってた頃は鶴島小学校の構内、現在「わかたけ」になっているところ。

木下博民氏の「私の昭和史 宇和島ふるさと交遊録」によれば、昭和20年7月13日「大雨の夜の大空襲」の事を書いているところで、丸の内に住んでいた知人が家を焼かれ、近隣の「宇和島幼稚園跡の防空壕へ避難」とある。

現在の城南タクシーと無人駐車場があるあたりと思われる。

前後のつながりから、その頃既に法圓寺にあったのか。

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この写真を、何時頃撮ったのか全く覚えていません。

この運動場で運動会をしたのは高学年になってからでした。

それまでは狭い中運動場でしていました。

たぶん、以前は大運動場の土の質が良くなかったせいだとおもいます。ある年、良質の土を大運動場にも入れることが出来たのでしょう。先生がうれしそうに「今年から大運動場で運動会をする事になった」と話していました。
当時は「運動会は裸足」が当たり前でしたので、大会前には良く小石広いをさせられました。

宇和島幼稚園の園児も、お遊戯とかけっこで参加していました。

まーきみ。の幼稚園の時、お遊戯の入場行進で、小学校のおにーさん&おねーさんが一生懸命拍手してくれてなんか照れくさかったのを覚えています。
照れ笑いする子もたくさんいたような。

かけっこでは、運動場を一周すると園長先生(校長が兼ねていた)が風船を渡してくれるのですが、必ずと言って良いほどトラックを一周っせずに、スタートからゴールまで、トラックの中を横切る「最短コース」を走る「つわもの園児」がいました。
園長先生も苦笑いしていました。

あの「つわもの園児」たちも今ごろいい大人になっているはず、きっと大物になっているでしょうface02

日頃、教室や運動場、トイレなどを共有している小学生達は、園児に対して概ね親切でした。

こっちからぶつかっていっても、相手が園児だとわかると、向うから「ごめん~こらえてやー」謝ったりしていました。

学校から「園児には親切に」と、きつく言われてるのかと思っていましたが、そうではない事を入学してから知りました。

もちろん、そのようないい習慣は自然に習いました。


左端の建物が鶴島小学校の講堂 右の比較的新しいのが新築した宇和島幼稚園 その左に、ほぼくっついてる建物が旧宇和島幼稚園の園舎。

この宇和島幼稚園の新園舎は現在「わかたけ」として使用しています。

写真では旧園舎は、少し基礎が低いような印象を受けまが、おそらくこの建物と講堂のあたりは地面が少し低かったような記憶があります。

昭和40年夏に円形の池ができたました。かなり最近までありましたが今は壊されてありません。段差のあった運動場と校舎が同じ高さになっているので、埋められたのかもしれません。鶴島小学校が建て替わった昭和平成元年頃か。




元々、田んぼで地盤が低かったので埋め立ての為の土砂を大量に必要としました。


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県道宇和島ー無月線の坂下津、馬越地区

この山肌が随分削られていますが、これによって得られた土砂をトロッコで運び、鶴島小学校の埋め立てに利用したそうです。

最近古老から聞いた話ではこの山の土砂は、小学校ではなく坂下津岸壁に使われたもので、小学校の埋め立てには現在の宇和島道路坂下津トンネル前の通称三平山の北側を掘削して用いた。運搬には板島橋の人道橋のあるあたりに、仮架橋してトロッコで運んだと言う。
(5月22日訂正)


昭和23年頃に、小学校と幼稚園が同じ時期に出来たと思われます。

この場所には、昭和18~19年の国民学校時代に丸の内の現在「たばこ産業跡地」から移転してきたそうです。

宇和島史誌には学校の設立は細かく書いているのですが、なぜか住所が書かれていないのは残念です。

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立体地図模型 後は南校舎


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現在の模型

この犬はj飼い犬か捨て犬か覚えていませんが、当時校内に結構捨て犬がいました。

概ね大人しくて放置していましたが、後年噛まれたという事件があったのか保健所に駆除を要請したこともありました。


小学校や幼稚園の頃の記憶は随分薄れて来ています。


とりあえずこれだけアップして、また分かったことがあればまとめて見たいと思います。
訪問ありがとう
プロフィール

まーきみ。

四国の片隅で「気功的な整体施術」しています。
世界で一つだけの、ココロとカラダが喜ぶ究極のリラクゼーション&トータルヘルスを目指して。
家内はフラワーエッセンスとヒーリング、ヒプノセラピーなどやっています。
夫婦で力を合わせて

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