
愛南町の文化遺産
愛南町教育委員会発行
予てより愛南町の歴史を調べている私に、mak氏が、「いい資料見つけたよ」と言って渡してくれたのがこれです。
この中には、現在ブログにアップを検討していて判らなかった「小山の境界標石郡」の事が載っていた。

小山にある境界標石
この2本の「従是西伊豫國宇和島領」の標石は、ここではなくどこか別の場所にあったのだろうと想像していたが、前述の資料の中にあった。
これはかつて、松尾峠の予土国境に建っていた境界標石で、新しい物に代えた後に
二つ折り にして小山のどこかの橋の材料として使用していたものを、「十数年前に発見」したものらしい。

確かに折れた後が

資料に拠れば
「これが記録にある貞享4年(1687)に最初に峠に建てられた碑と、天保5年に建て替えられた碑である。」
さらに
「碑の文字は古いものほどのびのびと勢いがある」とあることから

右側の、道しるべにも使われている標石が古いものだと思う。

みぎ へんろみち
左側面にも文字があるが判別できない

天保5年に建て替えられた後、最初の石碑は道しるべとして再利用され、さらにに3つ目の標石が出来たときに2つあわせて橋にされたのか?

現存する松尾峠の境界標石 これが3番目の標石と思われる。
まだ、行ったことがないので写真は資料から

この3番目の標石と、1,2番目つの標石には表示に大きな違いがある。
前2つは
「宇和島領」
3つ目は
宇和島藩支配地
再び資料に拠れば
「江戸時代には公式に【藩】は無く、【領】の文字が用いられている。」
さらに「藩」と言う呼び名が正式の行政区分名となったのは明治初年の府藩県三治制以後の事であり、それまでの領主は藩主と呼ばれるようになった。
版籍奉還(1869年 領地(版図)と領民(戸籍)の意)以後、廃藩置県(1871年)までの2年間あまりは藩知事と呼ばれた。
廃藩の藩は、いわゆる「藩政時代」の藩ではなく明治に行政区の呼び名を「藩」と改めたことによる呼び名である。
つまり・・
藩政時代に、藩は無かった!
時代劇なんかで見かける
「拙者、〇〇藩士・・・」
「〇〇藩主、〇〇の守様」
などと言う呼称は事実誤認であるということになる。
すると
「坂本龍馬脱藩の道」とは後世名づけたもので
肝腎の龍馬は
「わしゃ~今から脱藩するぜよ!」とは言わなかった事になる!
わしゃ~そんなこと、今日の今日まで
知らんかったぜよ!ヾ(`◇´)ノ彡☆!!
故に3番目の標石は、
版籍奉還後、宇和島藩が設置され、旧領主伊達宗徳が藩知事に任じられた明治2年6月から廃藩置県のあった明治4年7月の間に建てられたものである。
なお、土佐の碑は貞享5年(1688年)に建てられたものである。
資料より
いったい、この標石を橋に使っていたのは小山のどのあたりだろう?
2番目の標石が道しるべになった経緯とその設置場所は?
それが今、私の一番興味のある「謎」である。
やがて小山本村の集落に至る。道の右側に自然石で造った小さなお堂と3基の標石が整然と並んで 立っている。標石群の右端には「くわんじざいじへ三り」と刻まれた武田徳右衛門の道標①がある。
土地の人の話では、以前は松尾峠の登り 口にあったという。中央には「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた領界石と遍路道標を兼ねた道標②があり、さらに左端には道標②とは字体は異なるが、「従是 西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた高さ2.7m (9尺)の立派な領界石が並ぶ。
一本松町教育委員会の説明によると、この2本の領界石は、平成3年、橋の工事の際橋げたとして使用されているのが発見された。
いずれも二つに折れていた ものを修復し、番所跡近くのこの場所に移築したという。
前述した貞享4年(1687)に建立したという史料に合致する領界石は、長さ2.4m(8尺)の遍路道標に併用 されている中央の標石であると思われる。
この標石の正面に刻まれている遍路道の案内は、明治13年(1880)とあり、領界石を後世に遍路道標として再利 用したものである。
さらに天保5年(1834)の『伊達宗紀公御歴代事記』に、「10月17日、土州境小山村土州御境へ榜示ノ立石迥着」とあり、 ぼう榜示立石を船で運んだことや土州方の立会いを打診したことなどが記されている。
標石群の左端の標石は、この時建てられたものではないかと考えられてい る。
愛媛県生涯学習センター情報提供システム えひめ地域学のすすめ 伊予の遍路道(1)中道①