
御荘の旧道、観自在寺の参道に戦前の立派な建物

ここを登れば観自在寺





株式会社 土豫銀行
昭和4年、「幡多銀行(中村町)」、「御荘銀行」合併により設立
本店中村町(旧幡多銀行・一條神社西)
支店 御荘平城
御荘銀行は、明治44年、山泉氏創立
山泉家先代作太郎は三崎半島の一寒村三机村に生まれたが、刻苦勉励の資質に時代の動きを見る眼と商機を掴む才能を多分に持ち合わせていたようだ。
地方物産を買い集めて帆船で中央市場に送り、帰路は地方人の日常品を満載して南予各地に頒布、利を博し財を成した。
更に庶民金融の将来性に着眼して長兄保治氏と協力して大洲町に大洲銀行を創立したが、彼は更に南郡に驥足を伸ばし資本金十万円で株式会社御荘銀行を創立した。
この時明治45年(ママ)、その頭取として地方金融界の実権を掌中に収め、百万の財をなした。
もっとも彼がこの百財を築くには世の毀誉褒貶など眼中になく強烈無比な意欲のままに奮闘したためかなりの批判を受けたようだ。
しかし彼は良く稼ぎよく貯めた半面公共のために惜しみなく散じている。
没後当主利重氏の手により建築された工費二万円に及ぶ御荘公会堂、一千円を投じた御荘校の御真影奉安殿の如きいずれも作太郎氏の意志によるものである。
この一事によっても彼が決してありふれた収利型の人間でなかったことが頷けよう。
百万を超えると伝えられる山泉家の巨財と、予土金融界に君臨する予土銀行をごっそり受け継いだ当主利重氏とは一体どんな人か。
彼は喜多郡大洲町の素封家山泉家の出で、作太郎氏にとっては骨肉の甥にあたる。
幼児、迎嗣されて作太郎家に入り、早大商科卒業後住友銀行に勤務、世に言う骨のある他人の飯を食って鍛え上げた人だ。
郷に帰って西南銀行に頭取となった白面の青年はここで非凡な手腕を発揮して一躍その存在を社会から認められた。
ついで当時戦乱後の経済大恐慌のあおりを食って致命傷を受け到底回復の見込みなしとされた幡多銀行の立て直しに乗り出したがこの時大正12年内に冗費の節減、外に不良貸し付けの整理と、まさに快刀乱麻を断つさえ下限を見せ立派に起死回生の荒療治をやってのけた。
飽く迄も精力的で重厚な迫力を持つ点、断じて先代に劣らない。
昭和4年11月幡多、御荘両銀行を合併して「土豫銀行」を創立、豫土をまたいで地方経済界の中枢を成すに至った腕の冴えも、唯々あっぱれという外はない。
土豫銀行の持つ信用は大山泉の存在を直接反映するもので、内容の堅実無比は同業中、稀に見るところとされ、この点は同行の株価が良く物語っている。
正直なところ先代は少々黴臭かった。一種の暗さがあった。
如何に人間は出来ていても教養の点は争えない。利重氏は流石に最高学府を出て、大住友の飯を食って来ただけに清新な近代人の感覚っを持っている。
亡父の意志もあっただろうが公会堂建設費に2万円、御真影奉安殿に一千円をポンと投げ出したあたり、公共方面への目も開いている。
凡そ背演練されたゼスチャー、含蓄あるその話術には誰しもころりと惚れさせられてしまう。
詩藻豊かにして書を能くする彼、何かその方面の著述もあるはずだ。才華絢爛と言うべきだろう。
夫人は南予金融界の大御所佐々木長治氏の実姉で賢夫人の聞え高かったが昭和13年かりそめの病で長逝した。
良き半身を失われた彼の傷心は想像に余りあるというもの。
嗣子錬太郎氏は両三年前早大商科を出た秀才で昭和14年春御荘支店長の椅子に就き同行南豫の鎮台として第一線に活躍している。
ここ僧都河畔の詩の町にそそり立つ2つの白亜館。ひとつは工費5万円を投じた土豫銀行御荘支店であり、一つは御荘公会堂である。
前者は彼の職場として後者は奉仕の玉楼として豫南の天地に大きな光芒を放っている。

和口川右岸



山泉家彰功碑
御荘公会堂
昭和8年8月、本町在住初代作太郎翁の意志により、現二代利重氏が本群最初の鉄筋コンクリート造り一階建410㎡(敷地1080㎡)を公会堂として寄贈されたものである。
現在は「平城公民館交流センター」

株式会社 土豫銀行
貯蓄銀行業務兼業
山泉利重

遠くからでも見える威容


















ささき整体施術院
(事情により、一部画像にモザイクがかかっております)
愛媛県宇和島市坂下津乙18-5
電話番号 0895-23-7177
施術料金 1時間 4,000円
完全予約制
ランキング参加中 ポチッと押してね。<(_ _)>にほんブログ村
にほんブログ村
続きを読む































































